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ユーデンプラッツのホロコースト記念碑 ( 1/2 )
Judenplatz Holocaust Memorial
ウィーン、レイチェル ホワイトリード、2000年
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オーストリアにおけるユダヤ人迫害の歴史

第2次世界大戦の戦前から戦中にかけて、ナチス ドイツがユダヤ人を迫害したことはよく知られていますが、オーストリアでも同様の迫害が行われていたことは、ドイツに比べるとあまり知られていません。
 
その歴史を簡潔に説明すると、1938年、オーストリア国民の圧倒的支持を背景に同国がドイツに併合され(合邦 / アンシュルスという)、その直後から迫害が始まります 註1 。多くのユダヤ人は国外に亡命したものの、約6万5千人が強制収容所などで殺害されました。
 
しかし、戦後のオーストリアは「自分達はナチス ドイツの犠牲者だ」との立場を取ることで、ユダヤ人迫害の責任から逃れてきました。オーストリアにおいてこの過去は非常にデリケートな問題であり、ほとんどタブー視されていたのが実情です。

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記念碑と博物館建設の経緯

とはいえ、アンシュルスから半世紀が経つと、国立オペラ座の裏のアルベルティーナ広場に過去を戒めとするモニュメントが造られました。ただ、その表現がユダヤ人の納得できるものではなかったため 註2 、ナチスの戦犯追及で有名なサイモン ヴィーゼンタール氏の提唱で、旧市街のユーデンプラッツ(ユダヤ人広場)に新たなホロコースト記念碑を建立することになりました。
 
このユーデンプラッツには中世時代にシナゴーグ(ユダヤ教の教会)があり、1420年にウィーン市民がユダヤ人を迫害したとき、追い詰められたユダヤ人はシナゴーグで集団自殺して教会も焼失しました。そのような歴史からここが敷地に選ばれたのですが、記念碑建立の事前調査の段階でシナゴーグの遺構が地中に残っていることが判明。そこで、広場に面した建物内にユダヤ人の歴史に関する博物館を、広場の地下にシナゴーグの遺構を保存・展示する空間 註3 を設けました。記念碑はそのシナゴーグの真上に建っています。

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デザインに込められた意味

記念碑のデザインにあたっては指名コンペの結果、イギリスの女性芸術家レイチェル ホワイトリード氏の案が選ばれ、2000年に完成しました。それは箱形のモニュメントで、大きさは幅7m×奥行10m×高さ3.8mあります。
 
表面のリブと目地は書架を、扉は本の背表紙を表現しており、「書物の民」と呼ばれるユダヤ人の暗喩になっています。埋め込まれた本は手に取ることができず、扉も取っ手が無いことから分かるように実際には開きません。いわば“密閉された図書館”。その喪失感によって命と記憶を奪われたユダヤ人を象徴しているのです。また、“開かずの扉”の前の床には、コンペの条件により、オーストリアに住んでいた6万5千人のユダヤ人が犠牲になった旨の碑文が刻まれています。

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戦争の記憶をデザインで伝える難しさ

最初に述べたように、オーストリアのユダヤ人に対する戦争責任問題は長らくタブー視されてきて、同国が本格的に過去と向き合うようになったのは冷戦が終結した1990年代以降のこと。今も国民は複雑な感情を持っており、この記念碑の建立にも賛否両論が寄せられました。
 
実は、筆者の訪問時は「何かユダヤ人に関するモニュメントがある」くらいしか把握していなかったのですが、それでも、石棺を連想させる寡黙なデザインから“死”のイメージを感じ取り、苦難の歴史を伝えようとしていると察しました。
 
同じく戦争責任問題で複雑な事情を抱え、建築やモニュメントに関してしばしば論争が生じている日本にとって、このホロコースト記念碑は大いに参考とすべき存在です。ウィーンを訪れた際は、華麗なバロック建築だけでなく、暗い歴史の一面にもぜひ触れてほしいと思います。

名称

ユーデンプラッツのホロコースト記念碑

Judenplatz Holocaust Memorial

設計者

レイチェル ホワイトリード

Rachel Whiteread

所在地

オーストリア、ウィーン1区

用途

慰霊碑

竣工

2000年

構造

鉄筋コンクリート造

交通

鉄道:地下鉄U1・3号線 Stephansplatz駅下車 徒歩10分程度

備考

歴史的に重要な意味を持つ記念碑(慰霊碑)につき、節度を持って見学してください。


補註

  1. オーストリアにおける反ユダヤ主義はドイツとの併合前から根強くあった。オーストリア=ハンガリー二重帝国時代のウィーン市長カール ルエーガーは反ユダヤ主義者として有名で、若き日のヒトラーも彼の影響を受けている。
  2. 1938年11月、ウィーンやドイツ各地で市民がユダヤ人を一斉に襲撃する暴動が発生。路上に散ったガラスの破片から「水晶の夜」事件と呼ばれている。さらに、後始末としてユダヤ人は路上に這いつくばってタワシで清掃を強要され、その様子を市民が取り囲んで見ていた。このタワシを持って這いつくばった老人の像がアルベルティーナ広場に置かれたため、屈辱的であるとユダヤ人社会は反発する。
  3. ユーデンプラッツ博物館(設計 Jabornegg & Palffy、竣工 2000年)。ホロコースト記念碑とともに『a+u』2002年1月号に掲載。本来は記念碑と博物館はセットで紹介すべきだが、筆者の事前調査不足で博物館は見落としてしまった。広場の地下にはシナゴーグの遺跡の展示室があって、広場沿いの建物から地下通路を通じて入る。記念碑は純粋なモニュメントで出入口の機能はない。
  4. ウィーンに存在する第2次世界大戦やユダヤ人に関する戦跡・博物館・モニュメント等は『観光コースでないウィーン』(松岡由季、高文研)に詳しい。建築マップで紹介している建築では次の3件が関係する。
    • アウガルテン フラックトゥルム:ナチスが建設した高射砲塔。
    • カール マルクス ホーフ:アンシュルス以前からオーストロ ファシズムと呼ばれる全体主義が蔓延しており、1934年、ファシズム政権に対して決起した労働者と軍隊との間で銃撃戦の舞台となった。これを2月内乱という。
    • シュテファン大聖堂:正面入口の右側に「05」という数字が刻まれている。ゼロはアルファベットの「O」、5はアルファベット5番目の「E」の意味。オーストリアの独語表記は Österreich だが、「Ö」を「OE」として Oesterreich とも表記できる。つまり「05=OE」はオーストリアの頭2文字であり、ドイツ併合下の第2次大戦中、この数字を暗号として建物の壁に書くことでオーストリアの独立を訴えた。
  5. このモニュメントを記念碑と慰霊碑のどちらで訳すべきか悩んだが、書籍やネットでは記念碑としている場合が大半なので、本稿も多数派に従った。なお、終戦記念日や原爆記念日、平和記念公園というように、追悼する日やモニュメントに「記念」の言葉を用いることは国語的に間違いではない。念のため。

参考文献

  1. 『a+u』2002年1月号、新建築社
  2. 『建築文化』2002年2月号 特集:ウィーン20世紀建築MAP、彰国社
  3. 『観光コースでないウィーン 美しい都のもう一つの顔』松岡由季、高文研
  4. 『オーストリアにおける迫害の記憶(1)─ウィーンのユダヤ人広場プロジェクトをめぐって─』古田善文、獨協大学ドイツ学研究2005年
  5. 『現代パブリックアートにおけるメモリアルの論争点:マヤ・リンによるベトナム・ベテランズ・メモリアルとレイチェル・ホワイトリードによるホロコースト・メモリアルの比較検証』工藤安代、環境芸術学会論文集2001年

関連サイト

  1. Jewish Museum Vienna > Museum Judenplatz 公式サイト(英語)
  2. Judenplatz Holocaust Memorial ウィキペディア(英語)

建築マップで紹介している戦争に関するモニュメント

  1. 戦没学徒記念若人の広場(丹下健三、兵庫県南あわじ市)
  2. 太平洋戦全国戦災都市空爆死没者慰霊塔(高谷隆太郎、兵庫県姫路市)
  3. 平和の門(ジャン ミシェル ヴィルモット他、広島市)

公開日:2012年5月13日、最終更新日:2012年5月13日、撮影時期:2002年1月
カメラ:Nikon COOLPIX 775(Photoshopで修正)

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