炭田と炭鉱
明治から昭和中期(おおむね昭和30年代)までの日本では多数の炭鉱が操業していました。太古の植物が鉱物化したものである石炭は、地中に炭層を成して埋まっており、この炭層が広がる一帯を炭田(たんでん)といいます。福岡県には(1)北九州市から内陸部にかけて広がる筑豊(ちくほう)炭田、(2)福岡市周辺に広がる福岡・糟屋炭田、(3)大牟田市周辺に広がる三池炭鉱(三池だけは「~炭田」ではなく「~炭鉱」の呼称が一般的)という3つの炭田があって、とりわけ筑豊炭田は大小多数の炭鉱が林立する一大産炭地でした(地図01)。本稿で紹介する飯塚炭鉱は筑豊炭田における大手炭鉱のひとつです。
【地図01】福岡県の3炭田(Googleマップのキャプチャに付記)
筑豊の主要都市である飯塚市
飯塚炭鉱があった場所は閉山時の行政区分では嘉穂(かほ)郡穂波(ほなみ)町ですが、2006(平成18)年の合併により現在は飯塚市に含まれます。同市は直方市・田川市とともに筑豊における主要三都市に数えられ、市内や周辺には大手から中小まで多数の炭鉱が点在していました。ちなみに、麻生グループの創業者一族である麻生家 註1 の本家や、NHKドラマ『花子とアン』の登場人物「葉山蓮子」の結婚相手のモデルになった炭鉱王 伊藤伝右衛門 註2 の邸宅があるのも飯塚市です。
表記と符号について
本題に入る前に表記と符号について説明しておきます。「たんこう」には「炭鉱、炭坑、炭砿、炭礦」という表記があり、「砿・礦」は旧字体なので現在の新聞や書籍ではおおむね「鉱・坑」が使われますが、本稿では炭鉱全体を指す場合は「鉱」、個別の坑口を指す場合は「坑」と使い分けます。「まきあげ」の表記には「巻上、捲揚」のふたつがありますが、本稿は前者を採用しています。地名や市町村名は特記無き限り福岡県内。文中の符号「註・文・リ+番号」はそれぞれ4ページの補註・参考文献・リンク各項に対応します。
飯塚炭鉱の概要
飯塚炭鉱の遺構としては巻上機台座と呼ばれる2基の構造物(写真101)が有名です。ただしこれは炭鉱のごく一部に過ぎず、実際は現在の飯塚市平恒(ひらつね)地区の広範囲にわたる鉱区が飯塚炭鉱であり(地図02)、この中に複数の坑口や採炭・選炭施設、作業場、事務所、炭鉱住宅、福利厚生施設などが点在していました。跡地には工業団地が作られ リ7(炭鉱跡地に工場を誘致する例は珍しくない)、炭鉱の痕跡は巻上機台座などごくわずかしか残っていません。
飯塚炭鉱は、中島徳松 註3 という人物が1915(大正4)年に大徳炭鉱の経営に乗り出したのが直接的な発端です。その後、飯塚炭鉱は経営難に陥り、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)へ経営委託を経て1929(昭和4)年に譲渡され、三菱系炭鉱として組織変更を繰り返しながら操業を続けます。昭和30年代の炭鉱合理化政策に伴い1961(昭和36)年に一旦閉山するも、飯塚炭鉱株式会社(名前がややこしいが別会社)が事業を継承。しかしこれも1965(昭和40)年に閉山して完全に終了しました。
明治期から中島鉱業時代
もう少し詳しく説明しましょう。歴史を遡ると、筑豊では江戸時代から石炭採掘が行われていましたが、明治以降の飯塚炭鉱については、同鉱の鉱区内にあたる南尾村(現・飯塚市南尾)で1874(明治7)年に採掘を開始した記録が残っています 文1 。1897(明治30)年頃には平恒で鬼山炭鉱と平恒炭鉱、南尾で南尾炭鉱(前述の炭鉱とは別)が操業しており、『穂波町史』等はこれら3鉱を飯塚炭鉱の前身と位置付けています。平恒炭鉱は1900(明治33)年に穂波炭鉱と改称、経営者の変遷を経て、大正初期に鈴木商店 註4 という総合商社が経営する大徳炭鉱になったと思われます 文1・2 。さらに鈴木商店は大徳炭鉱の近くで神ノ浦炭鉱も経営していましたが、後に中島鉱業が買収し飯塚炭鉱の一部になっています。リ7
そして1915(大正4)年、鈴木商店の庇護を受けた中島徳松が大徳炭鉱の経営者に就くと、周辺の小炭鉱を飯塚炭鉱に統合して積極的な開発を行い、大手炭鉱へと発展させました。中島による炭鉱経営はかなり独特で、坑口を次々と開削して各坑に成績を競わせるというものでした。確かに通常の炭鉱では複数の坑口を設けますが、比較的狭い範囲に最大で11ヶ所もの坑口を稼働させ、選炭施設やボイラー設備も坑口ごとに別個というのは、決して効率的とはいえません。しかし、融資を行う銀行の信用を得るため、盛大振りを誇示する方法を採ったのです 文3 。
1889・明22 | 穂波村発足 |
1892・明25 | 中野徳治郎、鬼山炭鉱を開坑 |
1894・明27 | 木村定房、南尾炭鉱を開坑 |
1895・明28 | 香月新三郎、平恒炭鉱を開坑するが休止 |
筑豊鉄道により飯塚〜平恒〜臼井間が開業 | |
1896・明29 | 香月他数人の共同で平恒炭鉱再開 |
1900・明33 | 平恒炭鉱を穂波炭鉱と改称(後の大徳炭鉱?) |
1901・明34 | 路線が上山田まで延伸 |
1909・明42 | 路線名が筑豊本線となる |
1915・大4 | 中島徳松が大徳炭鉱の経営者に就任。周辺炭鉱を統合して飯塚炭鉱に |
1918・大7 | 中島鉱業設立 |
1922・大11 | 三菱鉱業に経営を委託 |
1929・昭4 | 三菱鉱業に譲渡、飯塚鉱業と改称 |
飯塚〜上山田間が筑豊本線から分離、上山田線となる | |
1936・昭11 | 三菱鉱業と合併、三菱飯塚鉱業所となる |
1957・昭32 | 町制施行、穂波町に |
1958・昭33 | 飯塚鉱業所を縮小、飯塚炭鉱となる |
1961・昭36 | 飯塚炭鉱閉山、第二会社に移行 |
1965・昭40 | 第二会社閉山 |
1988・昭63 | 上山田線廃止 |
2006・平18 | 穂波町等と飯塚市が合併 |
【地図02】各遺構の位置(Googleマップのキャプチャに付記)
三菱鉱業時代から閉山まで
とはいえ、当初は順調だった経営状態も1921(大正10)年頃から悪化。中島鉱業は前年から他の炭鉱を順次手放し、最後に残った飯塚炭鉱の経営も1924(大正13)年に10年間の委託経営という契約で三菱鉱業に移行します。さらに10年間を待たず、1929(昭和4)年に三菱鉱業が中島鉱業の全株式を取得して経営権を掌握、飯塚鉱業と改称して三菱の系列炭鉱に。そして1936(昭和11)年には三菱鉱業と合併して直系炭鉱になりました。ちなみに飯塚炭鉱の北側には住友忠隈炭鉱 註4 が、東側には三井山野炭鉱があったので、この一帯は中央資本の炭鉱が集中していたことになります。
炭鉱業界は、戦中・終戦直後の混乱から戦後復興と朝鮮戦争特需の好況を経て、昭和20年代末期からは安い海外炭の流入と石油へのエネルギー転換の影響で構造的な不況に陥りました。飯塚炭鉱も1957(昭和32)年から本格的な縮小期に入り、1927(昭和2)年に全期間を通じて最高の71万4千トンを記録した出炭量は、1958(昭和33)年に10万トンを切ります。1961(昭和36)年に三菱系としては閉山、いわゆる第二会社の経営に移行したものの長続きせず、1965(昭和40)年に完全閉山しました。
以上、飯塚炭鉱の歴史を簡単に振り返りました。2ページ以降は下記の構成で話を進めます。
建物名 | 飯塚炭鉱 Iizuka Coal Mine |
---|---|
設計 | 不詳 |
所在地 | 福岡県飯塚市平恒460-8 |
用途 | 炭鉱(現在は遺構として保存または放置) |
竣工 | 大正〜昭和時代 |
構造 | 巻上機台座:鉄筋コンクリート造(一部は無筋か?) |
交通 | 鉄道:筑豊本線 天道駅下車 徒歩約21分(約1.7km) バス:西鉄バス 平恒第二バス停下車(本数は極めて少ない) 車:駐車場なし。適当な場所に路上駐車。 公共交通機関は実用的ではない。車の運転ができないなら飯塚駅からタクシーで行くことをお勧めする。 |
備考 | 飯塚市指定文化財(本卸台座のみ)。2基とも公道から見学可能だが、連卸台座は私有地にあるので敷地内に入らないよう注意。 |
公開日:2014年7月5日、最終更新日:2014年7月5日、撮影時期:2006年7月・2009年1月・2014年6月
カメラ:Nikon D50、FUJIFILM XF1(Photoshopで修正)