炭鉱全盛期から続く芝居小屋
福岡県飯塚市はかつて多数の炭鉱が存在した筑豊(ちくほう)地方の主要都市です。その筑豊には炭鉱労働者の娯楽施設として芝居小屋が50ヶ所ほどありました。飯塚市の嘉穂(かほ)劇場もそのひとつ。炭鉱の衰退に伴い芝居小屋が次々と消えていく中、嘉穂劇場は今も興行を続けている筑豊唯一の芝居小屋です。
幾度も災難に見舞われた歴史
もともとこの場所には中座という芝居小屋がありました。木造3階建て2000人収容という大きな建築で、1921(大正10)年に竣工して以来、筑豊を代表する芝居小屋として営業していましたが、1928(昭和3)年に漏電による火災で全焼。すぐに再建されたものの、それも1930(昭和5)年に台風で倒壊してしまいます。相次ぐ災難に経営陣は手を引いて中座は解散。その後、劇場を取り仕切っていた伊藤隆氏が個人で再建に取り組み、1931(昭和6)年に竣工したのが現在の嘉穂劇場です。この名前は当時の地名が嘉穂郡飯塚町だったことによります。
【01】
戦前から昭和30年代までの炭鉱全盛期、嘉穂劇場をはじめ筑豊の芝居小屋はどこも賑わっていました。炭鉱の閉山で労働者が去って地域が衰退すると芝居小屋も廃業が相次ぎますが、伊藤家の家族経営である嘉穂劇場は公演日数が減りながらも経営を続けます。枡席・花道・廻り舞台といった伝統的形式を維持した現役の芝居小屋は全国的にも極めて貴重であり、大衆演劇をはじめとする芸能関係者の間で嘉穂劇場は有名な存在になりました。
ところが、2003(平成15)年の大雨で河川が氾濫して市内中心部が浸水、嘉穂劇場も客席や廻り舞台などが水に浸かり、昭和初期以来の存続の危機に瀕します。しかしながら、芸能界の著名人や地元の自治体・企業が支援に乗りだし、翌年には松井建設による復旧工事が完了して興行再開を果たしました。このとき、助成金や募金を受ける関係上、経営主体をNPO法人に移行。現在は大衆演劇の他、地域の文化活動やイベントなど様々な形で利用されています。
【02】
外観の特徴
嘉穂劇場は木造2階建て、収容人員は最大1200人。大きさは間口87.4尺(26.5m)、奥行138尺(41.8m)、高さは約50.8尺(15.4m)。前身の中座より一回り小さくなったとはいえ、現存する木造芝居小屋としては相当な規模です。
屋根はファサード(正面)となる東立面が入母屋で(写真01・02)、裏側の西立面は切妻。ただ、周囲に他の建築が密集しているため、ファサード以外の立面はあまり見えません。また、ファサードも駐車場の上屋で視界の一部が遮られてしまうのが少々残念ではありますが、この駐車場は建物の維持費捻出のために設けられました。ファサード中央上部の赤い部分は太鼓櫓といって、公演前に客寄せで太鼓を打つためのスペースです(現在も行っているかは分からない)。
なお、設計は中座、嘉穂劇場とも天津卯作という建築家が手掛けました。註1
【03】
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内部空間
内部は枡席・桟敷席・花道・格天井といった伝統的芝居小屋の形式を備えています。枡席の数は9×8列の計72枡。枡席の両側には花道があり、舞台に向かって左側(下手)が幅4.7尺の本花道(写真03)、右側(上手)が幅1.8尺の仮花道です。花道の外側は桟敷席(写真05)。桟敷席と花道の間の柱は、上に張り出した2階の桟敷席を支えるもので、屋根を支える柱は桟敷席の外側に建っており、桟敷席を含めた客席空間は間口70.5尺(21.3m)、奥行67尺(20.3m)の無柱空間となっています。小屋組は目視できませんでしたが、形状は和小屋ではなく洋小屋(トラス)とのこと。
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回り舞台と奈落
本花道の下部には、奈落と客席後方にある鳥屋(とや)という小部屋をつなぐ地下通路が設けられています(写真08)。公演の際、役者はこの通路で客に気付かれずに鳥屋に移動し、出番が来たら花道に登場します。
名称 | 嘉穂劇場 Kaho Theater |
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設計者 | 天津卯作 / 福岡天津興行場専門設計事務所 AMATSU Usaku / Fukuoka Amatsu Theater Professional Architects |
所在地 | 福岡県飯塚市飯塚5-23 |
用途 | 劇場 |
竣工 | 1931(昭和6)年 |
構造・規模 | 構造:木造、階数:地上2階 本体の建築面積:1,144.43㎡、同 延床面積:1,513.71㎡ 面積はリンク3による。これに楽屋棟と売店棟が付属する。 |
交通 | 鉄道:筑豊本線 新飯塚駅または飯塚駅下車 徒歩十数分 車:駐車場あり |
備考 | 内部の見学可。ただし公演日(その前後も含む)と年末年始は不可。スケジュールは公式サイトで確認のこと。 国登録有形文化財 |
補註
- 天津卯作の詳しい経歴は未確認。彼は劇場・映画館の専門家で、福岡天津興行場専門設計事務所を経営していた(参考文献1)。その名前から福岡県を中心に活動していたと思われる。
- 資料によって各部の寸法は若干異なる。本稿は基本的に『飯塚市近代遺跡(建造物等)調査報告書』の記述に従った。
- 戦前までに建てられた木造芝居小屋で現存するものについては、嘉穂劇場公式サイトに一覧がまとめられている。「建築マップ」では次の芝居小屋を紹介している(年代順)。西宮と東町の歌舞伎舞台(長野県、1816・文化13年)、金丸座 / 旧金比羅大芝居(香川県、1835・天保6年)、明治座(岐阜県、1894・明治27年)、内子座(愛媛県、1916・大正5年)、上下の翁座(広島県府中市、1923・大正12年)、嘉穂劇場 Atsushi版・タケ版=本稿(福岡県飯塚市、1931・昭和6年)。
参考文献
- 『定本 嘉穂劇場物語』(創思社出版)掲載「劇場建築よりみた嘉穂劇場」桑原三郎(近畿大学九州工学部教授)
- 『飯塚市近代遺跡(建造物等)調査報告書』編集 有明工業高等専門学校、飯塚市教育委員会
- 『筑豊の近代化遺産』筑豊近代遺産研究会、弦書房
- 『ポケット判 北九州・筑豊の近代化遺産100選』筑豊近代遺産研究会・北九州地域史研究会編、弦書房
リンク
公開日:2014年8月23日、最終更新日:2014年8月23日、撮影時期:2010年1月
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)