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三池炭鉱三川坑 ( 1/5 )
Mikawa Pit of Miike Coal Mine
福岡県大牟田市、1940(昭和15)年
三池炭鉱の地図

三池炭鉱の主要坑口と炭鉱専用鉄道の地図(Googleマップのキャプチャに付記)

江戸時代から平成まで操業した三池炭鉱

宮原坑

宮原坑

福岡県最南端の大牟田市を中心とする地域はかつて三池(みいけ)炭鉱で大いに栄えました。江戸時代には早くも藩の経営による初歩的な採掘が行われていて、明治初期の官営(国営)化で本格的な開発が始まり、1888(明治21)年に三井に払い下げられます。以後、国内屈指の出炭量を誇る三池炭鉱は「三井のドル箱」として財閥の富の源泉になるとともに、日本の近代化や戦後復興の原動力となりますが、やがて石炭から石油への転換や安価な海外炭の流入で炭鉱業界は斜陽化。各地の炭鉱が次々閉山するなか経営を続けたものの、1997(平成9)年、ついに三池も閉山しました。
 
大牟田市一帯の地下には炭層(石炭の層)が広がっていて、石炭を地下から掘り出すため、市内や周辺には多数の坑口(坑道の出入口)と関連施設(竪坑櫓等)が設けられました。三池炭鉱とはこれらの総称です。各坑口の建設時期や稼働期間は様々で、例えば別記事で紹介した 宮原坑万田坑は明治時代に開坑して主に戦前期に操業し、 有明坑は戦後から閉山時にかけて操業しました。さて、炭鉱/鉱山は閉山すると坑口を閉鎖しなければならないので、坑道の出入口そのものはコンクリートや鉄格子で塞がれます。一方、関連施設については特に取り決めはなく、解体か放置かは所有者次第であり、三池炭鉱の場合、大半は解体されてしまいましたがいくつかは残っています。施設が現存する坑口のうち、保存状態が比較的良いのが宮原坑と万田坑、そして三川(みかわ)坑です。

三川坑の歴史的重要性

三川坑は三池港船渠(船溜まり)の北に位置し、1937(昭和12)年に着工、1940(昭和15)年に竣工して操業が始まりました。三池炭鉱の坑口としては比較的新しい方といえます。他の坑口が老朽化や合理化で閉鎖される中、三川坑は閉山時まで三池炭鉱の主力坑であり続けました。明治初期の官営時代から平成初期の閉山までにおいては、各坑口が固有の歴史を持っていますが、三池争議と炭塵爆発事故が起きた三川坑は特別な存在です。炭鉱の歴史上重要なこのふたつの出来事に触れないことには、三川坑と三池炭鉱の歴史は語れません。
 
以下、三川坑の歴史と現存する遺構をページを分けて説明します。なお、三川坑は以前は立ち入り禁止でしたが、2012(平成24)年以降、「近代化遺産一斉公開」等で何度か公開されました。本稿4ページの写真は同イベント時に撮影したものです。なお、2015(平成27)年7月4日以降は毎週土曜日・日曜日および祝日の公開されるようになり、公開範囲も拡大しています。

2ページ
三池争議 
3ページ
三川坑炭塵爆発事故 
4ページ
三川坑の現状 
5ページ
補注、参考文献等
建物名

三池炭鉱三川坑

Mikawa Pit of Miike Coal Mine

設計者

不詳

所在地

福岡県大牟田市西港町2

用途

炭鉱

竣工

1940(昭和15)年

構造

建屋:木造、鉄骨造

交通

バス:西鉄バス 三川町一丁目で下車 正門まで徒歩約2〜3分

駐車場あり

備考

毎週土曜日・日曜日および祝日に内部を公開。ボランティアガイドの説明つき。時間は10〜17時。

大牟田市が保存方法を検討中。

左から三池港、三池炭鉱三川坑


公開日:2013年11月2日、最終更新日:2015年8月9日、撮影時期:2008年6月(慰霊碑・坑夫像)、2012年11月(三川坑)
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)

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