2ページでは現存する構造物(煙突、大斜坑、材料降下坑など)とモニュメント(第一竪坑櫓跡、慰霊碑)、そして炭鉱専用鉄道との関係などについて説明します。
【202】
【203】
【204】
煙突
左:田川炭鉱伊田坑の煙突、右:三池炭鉱宮原坑の巻上機
この煙突は、宮浦坑が操業を開始した当時のものでは唯一現存する構造物であり、三池炭鉱全体としても数少ない最初期の遺構のひとつです。近代化初期の炭鉱では、竪坑・斜坑の巻上機や排水ポンプなどの動力源に蒸気機関を用いていたので、排煙用の煙突が必ず建っていました。しかし、電力で動くモーターに切り替わると蒸気機関と煙突は不要になって解体され、国内のすべての炭鉱遺構を見渡しても、明治期のレンガ造煙突は宮浦坑と 田川炭鉱伊田坑(福岡県田川市)にしか残っていません(コンクリート造煙突は数カ所ほど現存)。
付け加えると、有名な「炭坑節」の歌詞にある「あんまり煙突が高いので さぞやお月さん煙たかろ」とは、この種の煙突から出た煙が空を覆った様子を表現したものです。公害問題の認識が低かった昔は、大量の煙を繁栄の象徴だと皆が素直に讃えていました。なお、炭坑節はもともと田川炭鉱伊田坑で誕生した唄なのですが、歌詞を三池炭鉱に置き換えたバージョンが広く普及したせいか、宮浦坑の煙突がモデルだとする記述が散見されます。確かに、炭坑節は炭鉱界で広く唄われていたので、その説明でも間違いとまではいえませんが、厳密には伊田坑の煙突がモデルであることにご注意ください(詳しくは田川炭鉱伊田坑の記事を参照)。
【205】
【206】
【207】
大斜坑
竪坑(左)と斜坑(右)の模式図。現地説明板より。
宮浦坑の大斜坑は、安全面から坑口は壁で塞がれているものの、軌道(レール)や人車(後述)が置かれているなど、斜坑の仕組みが理解できるように再現されています。ただし、大斜坑は複線だったようですが、残っているのは片方のレールのみ。また、軌道の先(写真207左奥)にあったはずの巻上機室は解体済みです。
【208】
【209】
【210】
材料降下坑と詳細不明の構造物
材料降下坑(写真208)は大斜坑に平行して設けられた斜坑で、採掘のための各種資材の輸送に使われました。坑口の周囲がレンガ造なので、かなり昔の開坑と思われますが、手持ちの資料では竣工年や稼働時期は確認できていません。
また、ふたつの坑口の上部に広がる構造物については(写真209・210)、これも用途は確認できていませんが、何か大きな施設の基礎だったと考えられます。構造は鉄筋コンクリート造の他にレンガ造や石造も混在しており、何度も増改築が行われたようです。写真210に写っている出入口は、位置関係からすると材料降下坑につながっているか、その上を交差していると見られます。
【211】
【212】
【213】
第一竪坑櫓跡のモニュメント
宮浦坑が操業を始めた1888(明治21)年に煙突とともに建設された第一竪坑櫓 リ6 は、戦後に役目を終えると解体されました。これは保存云々という問題ではなく、宮浦坑自体はまだ操業を続けていて櫓を残しても邪魔なので解体したのでしょう。現在その跡地にあるのは、公園整備時に作った櫓の基礎をイメージしたモニュメントであって、本物の遺構ではありません(写真211)。現地説明板によると第一竪坑櫓の高さは10m。
中国人殉難者慰霊碑
三池炭鉱を語る上で避けて通れないのが戦前・戦中の強制労働の歴史です。強制労働をさせられた人々には、日本人の囚人、中国・朝鮮人の徴用工、そして連合国軍捕虜の三者がいます。徴用工を集める際の “狭義の強制性” については議論が分かれるところですが、いずれにせよ三者とも過酷な労働を強いられ、事故や過労で多くの人が亡くなったことは事実です。このうち、宮浦坑で亡くなった中国人44名の慰霊碑が、2013(平成25)年に公園内に建立されました。他にも大牟田・荒尾両市内にはいくつかの慰霊碑があります。註2
【214】昭和30年代?の宮浦坑。『三池争議写真集』(三池炭鉱新労働組合)より
【地図05】1ページの地図04を180度回転。左の写真とおおむね同じ範囲でトリミング
【215】宮浦坑から操車場と化学工場を見たところ。
【216】操車場内の古い凸型電気機関車。
【217】操車場全景。遠くに宮浦坑の煙突が見える。
宮浦坑と三池炭鉱専用鉄道
ここまで現存する遺構とモニュメントを紹介しました。2ページの最後では解体されたものの重要な施設であるホッパーと、その鉄道との関係を説明し、さらにコークス工場にも触れておきます。
坑口から出した石炭を輸送するには、距離などの条件によって様々な方法が使い分けられていましたが、一般的なのは鉄道で、三池炭鉱の場合は国鉄とは別に炭鉱専用鉄道 リ3 が存在しました。宮浦坑をはじめとする坑口群はこの専用鉄道で結ばれていて(1ページ地図01参照)、石炭は最終的には三池港の貯炭場に集められ、そこから先は船で遠くに運ばれました(国鉄を使う輸送ルートもあった)。三池炭鉱の閉山に伴い、専用鉄道も廃止となりましたが、JR鹿児島本線との分岐点から三井化学工場までの一部区間は三井化学専用線として存続。それ以外の区間はレールや架線はほとんど撤去されたものの、線路の敷地や橋梁は残っています(レールもごく一部に残存。右上の写真を参照)。
専用鉄道の現役時代、車両の入れ替え作業などを行う宮浦停車場という施設が宮浦坑の東側にあり、現在も三井化学専用線の宮浦操車場 リ12 として存続しています。炭鉱全盛期に比べれば車両も少なく閑散としているとはいえ、石炭輸送に従事した戦前の電気機関車が動いているなど(写真216)、当時の面影を今もうかがえます。この旧宮浦停車場の敷地の宮浦坑沿いの部分には、同坑の選炭施設(ホッパー)への引き込み線が通っていました(写真214、地図05)。ホッパーとは下部に漏斗が付いた石炭/鉱石の貯蔵施設で、貨車をその真下に止めて鉱石を投下する仕組みです。宮浦坑のホッパーは少なくとも1993(平成5)年まではありましたが リ10・11a 、おそらくその後すぐ解体されたらしく現存しません。煙突や竪坑櫓と並んで炭鉱を象徴する構造物であるホッパーが三池炭鉱にひとつも残っていないのは残念です。
コークス工場の遺構
コークス炉関連施設の遺構
現在、宮浦操車場沿線の三井化学工場側に広がっている駐車場や緑地は、1934(昭和9)年に建設された第二骸炭(コークス)工場の跡地。斜面に見えるコンクリート構造物はコークス炉関連施設の遺構です。 参1