【101】
福岡市近郊にあった炭鉱
福岡市の東部に隣接する志免町は、一般には福岡市のベッドタウンとして知られています。そのまちなみの中に屹立する巨大なコンクリートの塔 ── これは竪坑櫓という炭鉱施設の廃墟で、志免町のみならず日本にとって重要な近代化遺産でもあります。
志免町が属する糟屋(かすや)郡では、同町をはじめ郡内各地で多数の炭鉱が操業していて糟屋炭田と呼ばれていました。特に志免炭鉱は同炭田における中心的な存在として有名です。
戦前の歴史(第一坑の開坑から終戦まで)
明治初期に一部の炭鉱が官営化されていた時期はあったものの、それ以降の炭鉱は基本的に民間企業が経営するものでした。ところが、志免炭鉱の場合は開坑から閉山まで一貫して“国営(官営)”だった点に特色があります。
もともと志免炭鉱は明治時代に旧日本海軍が開発を始めた炭鉱です。軍が炭鉱開発とは意外に思えますが、軍艦の動力が蒸気機関だった当時、海軍は良質の無煙炭を必要としていました。そこで無煙炭が埋蔵されている糟屋炭田に目を付けた海軍は自ら炭鉱開発に着手し、1889(明治22)年に新原(現 糟屋郡須恵町)で最初の坑口である第一坑を開坑します。初期の炭鉱名は新原採炭所といいました(後に海軍採炭所 → 海軍燃料廠採炭部 → 第四海軍燃料廠と改称)。
以後、次々と坑口を開坑しながら範囲を拡大。志免村(当時)には1906(明治39)年開坑の第五坑から進出しました。竪坑櫓の竣工は1943(昭和18)年のこと。そして終戦の年を迎えます。
【102】
戦後の歴史(再出発から閉山まで)
終戦時に炭鉱を管轄していたのは海軍第四燃料廠(しょう)という部門でした。 1945(昭和20)年の敗戦に伴い海軍省が解体されると炭鉱の管轄は目まぐるしく変わり、同年12月には運輸省門司鉄道局志免鉱業所に、そして1949(昭和24)年に日本国有鉄道志免鉱業所となります。
終戦直後の混乱期は各地の炭鉱とも稼働率が低下し、国鉄は蒸気機関車用の石炭の確保に苦労します。そうした中で国鉄直営炭鉱である志免炭鉱は重要な供給源であり、鉄道運行を支える形で戦後復興に大きく貢献しました。しかし、石炭から石油へのエネルギー革命、鉄道の電化や非電化路線へのディーゼル機関車の導入による蒸気機関車の減少、安価な海外炭の流入といった事情から経営は苦しくなり、1964(昭和39)年に閉山します。
放置から再評価へ
閉山後、炭鉱施設の多くは解体されますが、竪坑櫓は解体に多額の費用がかかることから事実上放置されました。そのまま無用の長物として数十年が経過、やがてインターネットの廃墟系サイトなどを通してその存在が全国に知られるようになります。一方、戦前・戦中に建設された橋梁や工場といった土木・産業分野の構造物を近代化遺産として見直す動きの中で、志免炭鉱も高い評価を受け、2009(平成21)年に竪坑櫓は国の重要文化財に指定されました。
志免炭鉱と関連遺構群
次ページ以降(2〜9ページ)で、竪坑櫓をはじめとする志免炭鉱の遺構や現役時代の面影を伝えるもの、周辺に点在する他の炭鉱遺構などを以下の通りに紹介します。10ページは補註等です。
名称と漢字の表記について
炭鉱の正式名称は戦前は海軍採炭所等、戦後は志免鉱業所ですが、本稿では分かりやすさを優先して志免炭鉱と記します。また、炭鉱には炭“坑”、竪坑櫓には“立”坑櫓という表記もありますが、本稿は「鉱・竪」とします。
名称 | 志免炭鉱(正式には志免鉱業所) Shime Coal Mine |
---|---|
設計者 | 日本海軍 第四海軍燃料廠 Imperial Japanese Navy Arsenal 4th Fuel Factory |
所在地 | 福岡県糟屋郡志免町 他 |
用途 | 炭鉱 |
操業時期 | 第一坑開坑:1889(明治22)年 閉山:1964(昭和39)年 |
構造 | 竪坑櫓:鉄筋コンクリート造 |
交通(竪坑櫓まで) | バス:西鉄バス 東公園台2丁目下車 鉄道:香椎線 須恵駅下車、徒歩約20分 車:隣接する公共施設に駐車可能 |
備考 | 竪坑櫓は国指定重要文化財、外観は見学可能、内部立入禁止。 |
公開日:2002年12月9日、最終更新日:2016年6月9日 10ページ目を追加して各ページ末尾に記載していた補注・参考文献・リンクを集約、撮影時期:2006〜2011年
カメラ:Nikon D50、Canon PowerShot S90(Photoshopで修正)