はじめに
田川炭鉱は福岡県の田川市と田川郡でかつて操業していた炭鉱です。大小多数の炭鉱が林立していた筑豊(ちくほう)炭田の中でも三井が経営する同鉱は主要な炭鉱であり、その煙突が「炭坑節」のルーツとなるなど、筑豊を代表する存在といえます。田川炭鉱は田川市・郡内に複数の坑口を所有していて、そのひとつ伊田坑の遺構を紹介するのが本稿の主題ですが、まずは筑豊炭田の概要から話を始めましょう。
福岡県の3炭田
太古の植物が地圧で鉱物化して生じた石炭は、地中に炭層を成しています。この炭層が埋まっている一帯を炭田(たんでん)といい、福岡県には(1)北九州市から内陸部にかけて広がる筑豊炭田、(2)福岡市周辺に広がる福岡・糟屋炭田、(3)大牟田市周辺に広がる三池炭鉱という3つの炭田があります(三池だけは「~炭田」ではなく「~炭鉱」の呼称が一般的)。右図で分かるように筑豊炭田はかなり広い範囲に分布しています。ちなみに「建築マップ」の別記事で紹介した志免炭鉱は糟屋炭田に、有明・三川・宮原・万田の各坑は三池炭鉱に属する炭鉱です。
福岡県の3炭田(Googleマップのキャプチャに付記)
筑豊地方の範囲
筑豊とは昔の律令制による国名、筑前(ちくぜん)と豊前(ぶぜん)を合わせた地域名で、遠賀(おんが)川を航行する石炭運搬船の船頭達が1886(明治19)年に設立した「筑豊五郡川ひらた同業組合」や、1889(明治22)年に炭鉱主達が石炭輸送のために設立した「筑豊興業鉄道」をきっかけに普及しました。つまり、もともと石炭産業とともに生まれた地域名なのです。もう少し詳しく述べると、筑前は福岡市や北九州市を含む現在の福岡県の広範囲、豊前も福岡県から大分県まで広がる国ですが、筑豊という場合は炭鉱が集中する両国の一部地域(筑前国嘉麻・稲穂・鞍手・遠賀郡と豊前国田川郡の五郡)だけを指します。ただ、炭鉱が閉山して年月が過ぎるに従い、旧・遠賀郡(現・遠賀郡および北九州市の西半分)も筑豊に含まれていたことは県民意識から薄くなり、現在は福岡県内陸部のみを指す地域名になっています。
筑豊炭田の概要
筑豊炭田では既に江戸時代から藩営による初歩的な採掘が行われており、瀬戸内海の塩田向けに流通ルートが確立していました。そして明治時代になると民間人の炭鉱経営が認められて石炭産業が勃興、機械力を導入した近代的な採掘が始まり、我が国有数の産炭地に発展します。国内の全出炭量における筑豊炭田の割合は明治30〜40年代に5割、1955(昭和30)年でも3割を占めるほどでした。
筑豊炭田の特徴は、上は中央の財閥・大企業や地元有力者から下は個人事業主のような者まで様々な事業者が参入して数え切れないほど多くの炭鉱が乱立し、その混沌とした状況が戦後も続いた点にあります。他の産炭地でも零細業者の参入はありましたが、筑豊は特に際立っていました。ただ、今回は三井田川炭鉱という大手の炭鉱を取り上げるので、中小炭鉱については別の機会に紹介したいと思います。
表記と符号について
本題に入る前に表記と符号について説明します。「たんこう」には「炭鉱、炭坑、炭砿、炭礦」という表記があり、「砿・礦」は旧字体なので現在の新聞や書籍ではおおむね「鉱・坑」が使われます。本稿では炭鉱全体を指す場合は「鉱」、個別の坑口を指す場合は「坑」と使い分け、「田川炭鉱伊田坑」という風に表記します。ただし、炭坑節のタイトルと歌詞については「坑」の字が普及しているので「炭坑」としました。会社としての「田川炭鉱」は経営者の変更や組織改編によって名称が何度も変わっていますが、基本的に「田川炭鉱」で通し、文脈に応じて個別の会社名を記述しています。また、地名や市町村名は特記無き限り福岡県内です。文中の符号「註・文・リ+番号」はそれぞれ5ページの補註・参考文献・リンク各項に対応します。
黎明期の田川炭鉱
では、田川炭鉱の歴史を簡単に振り返っておきます。江戸時代は藩が承認した特定の人物にしか石炭採掘権が与えられませんでしたが、明治維新後の新政府はこれを自由化、基本的に誰もが炭鉱経営に参入できるようになり、筑豊の炭鉱数は一気に増加しました。ところが1888(明治21)年、海軍省が田川郡の大部分を海軍予備炭田に指定したため、炭鉱業界は指定解除に向けて奔走。結局、1891(明治24)年に田川郡の炭鉱はすべて開放されますが 註1、この運動の過程で田川の炭鉱主達がまとまり、1889(明治22)年に田川採炭会社が発足します。これが田川炭鉱の直接の起源です。
その後、同社は組織改編した上で石炭を輸送するための鉄道建設にまで手を広げるも、1899(明治32)年に鉄道部門から独立して田川採炭組に改称。しかし内部統制が上手くいかず、翌年に三井鉱山が買収、1918(大正7)年に三井田川炭鉱と改称しました 文1。
三井時代の田川炭鉱
三井は1905(明治38)年に伊田竪坑の開削に着手し、1909~10(明治42~43)年にふたつの竪坑が相次いで竣工。この完成により田川炭鉱は筑豊を代表する炭鉱に発展します。しかし戦後、石炭から石油へのエネルギー転換に伴って政府は国内炭鉱の合理化(スクラップ アンド ビルド政策)を行い、大手だった田川炭鉱も閉山対象に選ばれて1964(昭和39)年に一旦閉山。田川鉱業株式会社という別会社が伊田坑を継承しますが、これも1969(昭和44)年に閉山し、田川炭鉱での採掘は完全に終了しました。
1889・明22 |
田川採炭会社設立 |
1893・明26 | 豊州鉄道と事実上の合併。田川採炭坑に改称 |
1895・明28 | 豊州鉄道が行橋〜伊田(現・田川伊田)間を開業 |
1899・明32 | 豊州鉄道から分離。田川採炭組に改称 |
1900・明33 | 三井鉱山が買収。三井田川炭鉱に改称 |
1905・明38 | 伊田竪坑の開削に着工 |
1908・明41 | 煙突竣工 |
1909・明42 | 第一竪坑櫓竣工 |
1910・明43 | 第二竪坑櫓竣工。この頃、炭坑節の元唄が完成 |
1918・大7 | 三井田川鉱業所に改称 |
1943・昭18 | 後藤寺町と伊田町が合併して田川市となる |
1964・昭39 | 三井田川鉱業所閉山。田川鉱業株式会社が伊田坑を継承 |
1969・昭44 | 田川鉱業閉山 |
1983・昭58 | 伊田坑跡地に田川市石炭資料館開館 |
2005・平17 | 田川市石炭・歴史博物館に改称 |
2011・平23 | 山本作兵衛コレクションが世界記憶遺産に登録される |
閉山から現在まで
閉山後、炭鉱施設の大部分は解体。シンボル性の高い竪坑櫓と煙突だけは保存の上、跡地は石炭記念公園として整備され、その一画に田川市石炭資料館(後に田川市石炭・歴史博物館と改称)が建てられて現在に至ります。炭鉱や産業遺産全般への関心が近年高まる中、同博物館が所蔵する山本作兵衛氏の炭鉱記録画と文書が世界記憶遺産に登録されたことが追い風となって、筑豊の炭鉱も注目が集まっています。註2、リ1・7・8
以上が筑豊炭田と田川炭鉱伊田坑の大まかな歴史です。次のページから伊田坑跡地に現存する遺構などを個別に説明します。
建物名 | 田川炭鉱伊田坑 Ita Pit of Tagawa Coal Mine |
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設計 | 三井田川鉱業所 Mitsui Tagawa Coal Mine Company (個々の施設ではなく全体的な設計・施工監理者として) |
所在地 | 福岡県田川市大字伊田2734-1 |
用途 | 炭鉱(現在は遺構として保存) |
竣工 | 第一竪坑櫓:1909(明治42)年、煙突:1908(明治41)年 |
構造 | 竪坑櫓:鉄骨造、煙突:レンガ造 |
交通 | 鉄道:日田彦山線・伊田線・田川線 田川伊田駅下車 徒歩8分 車:駐車場あり |
備考 | 炭鉱跡地は公園に整備されている。竪坑櫓、煙突、モニュメントは常時見学可能。 |
公開日:2014年5月24日、最終更新日:2014年5月24日、撮影時期:2009年12月・2014年2月
カメラ:Nikon D50、Canon PowerShot S90(Photoshopで修正)