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八幡市民会館 ( 1/3 )
Yahata Citizen Hall
福岡県北九州市、村野藤吾、1958(昭和33)年、閉鎖中
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【101】ロータリーから八幡市民会館を見る
《 重要なお知らせ 》

八幡市民会館は2016(平成28)年3月をもって閉館となりました。建物と敷地は閉鎖され、現在は公道から外観のみ見学できます。北九州市は当面、解体はしませんが、活用方法は未定です。

建設の経緯

Googleマップのキャプチャ

Googleマップのキャプチャに付記

八幡市民会館は福岡県北九州市八幡東区にある公共ホールで、村野藤吾氏 註1 の設計により1958(昭和33)年に竣工しました。八幡駅前には、村野氏が手掛けた建築として他に 八幡図書館福岡ひびき信用金庫本店が建っています。村野氏の建築は関西を中心に全国各地に点在しますが、大学キャンパスやホテルはともかく、別々の3件がまとまってまちなみを形成しているのはおそらく八幡駅前だけでしょう。
 
九州の北端に位置する北九州市は、門司・小倉・戸畑・八幡・若松の5市が1963(昭和38)年に対等合併して成立した都市で、八幡市民会館と八幡図書館は旧八幡市の時代に建てられました。まず、その建設の経緯を簡単に振り返っておきます。
 
製鉄所を中心とする工業都市として早くから発展した八幡市は、太平洋戦争中の空襲で大きな被害を受けます。戦後、八幡市は復興計画を策定して中心部の区画整理を実施。八幡駅前においては、南に延びる幅50mの大通り(国際通り)とその南端にロータリーを建設した上で、沿道に各種の公共建築を整備しました。その一連の建築の象徴といえるのが八幡市民会館です。同館の設計者に村野氏が選ばれた理由は、戦前の代表作である山口県宇部市の渡辺翁記念会館を八幡市関係者が高く評価したことに加え、彼が青少年時代に八幡市で暮らしていたという縁があったからです。
渡辺翁記念会館

渡辺翁記念会館
山口県宇部市、1937(昭和12)年
国指定重要文化財
新歌舞伎座

新歌舞伎座
大阪市、1958(昭和33)年
現存せず( 詳細記事
米子市公会堂

米子市公会堂
鳥取県米子市、1958(昭和33)年
Googleストリートビューのキャプチャ

初期の劇場系建築

八幡市民会館までの村野藤吾氏の劇場系建築を見てみると、第1作にして傑作と名高い渡辺翁記念会館 註2 が1937(昭和12)年に完成、戦後は昭和20年代に大阪市で民間の劇場や映画館が何件か完成しています。そして1958(昭和33)年に八幡市民会館、新歌舞伎座(大阪市)、米子市公会堂(鳥取県)の3件が、翌年には八幡市の隣の小倉市(現・北九州市小倉北区)に小倉市民会館(現存せず、後述)が完成。戦後初期に劇場系建築が相次いだのは、戦争が終わり、文化活動が活発になったことの証しでしょう。

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【102】ファサード
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【103】1階テラスから見る
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【104】

外観の特徴

村野氏の作品集や関連書などでの扱いを見ると、個性的な外観の新歌舞伎座や米子市公会堂に比べて、八幡市民会館の注目度は低いように感じます。確かに、多様な作風が見られる村野氏の建築の中で、八幡市民会館の外観は比較的おとなしい部類に入りますが、よく観察すると卓越したデザインがうかがえます。まずホール部分については、壁面は微妙な傾斜と膨らみを持ち、壁の上下は窪みとガラスで本体と切り離され、厚みの薄い屋根が被さっています。これらにはボリュームを軽やかに見せる効果があります。
 
ファサード(正面)の下半分を横切るコンクリートの腰壁は、機能的にはエントランスの庇の役割を担っています。図面上は、駐車場に面した最下階(写真102)が地下1階、その上が地上1階(写真103)という扱いで、地上1階はセットバック(後退)していて前面にテラス、つまり地下1階の屋上が広がっています。写真は撮り忘れましたが、本来、観客はファサード左手にある大きなスロープでテラスに上がり、地上1階から入場するという動線計画だったようです。ただ、現在は地階の出入口がメインエントランスで、スロープ〜テラス経由の出入りは行われていません。また、意匠的にはこの腰壁と列柱は建物全体の基壇となっていて、安定感や象徴性が表現されています。
 
このように、八幡市民会館のファサードは、ボリュームのバランスを巧みに図りつつ、モダニズムと歴史様式、そして機能性が上手く調和したデザインとなっています。筆者の推測を付け加えると、同時期の劇場系建築の中で八幡市民会館がやや古典寄りのデザインなのは、皿倉山を背景としたときの建築の存在感を意識しているのかもしれません(写真101)。赤茶色のタイルも山の緑との対比から決めた可能性が考えられます。

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【105】美術展示室の東立面
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【106】美術展示室の西立面
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【107】

美術展示室

ファサードの右手にある細長い直方体は美術展示室(写真105)で、創作活動を行う市民の発表の場に使われています。西側の道路に対して壁のように建っていることや(写真106)、ホールにギャラリーが併設されていることには理由があり、もともと八幡市民会館の駐車場とロータリーとの間には八幡市公民館(現存せず)が先にできていました。道路沿いに壁のように建っている公民館との繋がりを考えて、美術展示室も同じ形状になったわけです。地元の方によると、公民館と美術展示室は内部で行き来ができたとのこと。

航空写真01
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)撮影 1974(昭和49)年度

しかがって、昔は写真101のアングルの中央に公民館が建ち、ロータリーから八幡市民会館はほとんど見えなかったと思われます。なぜこのように閉鎖的な配置だったかというと、八幡市公民館が防火帯建築として建てられていたからです。1952(昭和27)年、都市の不燃化を促す目的で耐火建築促進法という法律が施行され、道路沿いに設定された防火建築帯というエリアの中に不燃建築物を建てる場合は補助金が支出されることになりました。要するに、建物を一種の防火壁とみなして、大規模火災による延焼を防ごうという考えです。この制度は後に廃止されましたが、昭和20〜30年代にはこれに基づく防火建築が全国各地に完成し、多くは老朽化で解体されたものの、横浜市などには一定数がまだ残っています。註3
 
念のために述べると、美術展示室が法律に基づく防火建築だったかどうかは分かりません。ただ、八幡市公民館との連続性が考慮されたという意味で、美術展示室のデザインがこの制度の影響を受けたことは確かです。

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