若人の広場は2013(平成25)年から改修工事が行われ、2015(平成27)年3月に「若人の広場公園」としてリニューアルオープンしました。ただし、本稿の執筆は改修前であり、情報が古いことを予めご了承ください。
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廃墟化した知られざる名建築
戦没者の慰霊や平和を祈念する目的で丹下氏が設計した建物としては、広島市の 平和記念資料館が有名です。原爆の惨禍を後世に伝えるというこれも日本にとって重要な建物であり、国内はもちろん世界中から多くの人々が訪れています。一方、戦没学徒記念若人の広場(以下、若人の広場)は存在自体がほとんど知られておらず、半ば廃墟化した状態に陥っています。広島と並んで丹下氏の代表作とされてもおかしくないのに何故こんな有様になったのか、まずはその経緯から説明しましょう。
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建物の目的
若人の広場の建築主は、動員学徒の傷病者や戦没者遺族の援護を行う団体である財団法人動員学徒援護会です。動員学徒とは戦時中に工場労働に動員されたり戦地に出征した学生のことで、工場への攻撃や戦闘で多くの学生が亡くなっています。若人の広場は、動員学徒を追悼するとともに遺品や資料の収集・展示のための施設として建てられました。
設計の経緯
丹下氏が若人の広場の設計を依頼された1962(昭和37)年は、代々木屋内競技場の実施設計をはじめ多くの物件を抱えて多忙な時期でしたが、それでも依頼を引き受けたのは建設に奔走した宮原周治氏の熱意によるところが大きいと思われます。宮原氏は、自身も動員学徒で動員先の工場で空襲に遭い両腕を失いながら、不自由な体を押して建設資金を集めるため全国を巡るなど、建設活動の中心的な人物でした。
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存在が知られていない理由
施主側がこの宮原氏を通じて打合せを行ったためか、丹下事務所は動員学徒援護会の政治的背景を把握していなかったようです。完成直前になって、この計画に岸信介氏が関わっていることや竣工式に自衛隊の艦艇や飛行機がやって来ることを知ると、1960年の安保改正に関して当時の岸首相に批判的だった丹下氏は、竣工式を欠席した上に若人の広場は作品集に掲載しないことを決めます 註1 。設計者が竣工式を欠席するという通常あり得ない態度をとるほど、政治家や自衛隊の関与に対する丹下氏の反発は強いものでした。
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財政難と震災
ともあれ開館した若人の広場でしたが、入場者の少なさや宮原氏亡き後の中心人物の不在などで運営に苦しんだ末、1994年頃には財政が破綻して閉鎖状態となります。追い打ちをかけるように1995年の震災で建物の一部が損壊(外壁がネットで覆われているのは、地震で崩れかけた石材の落下を防止するため)。収蔵品は2004年に運営者から立命館大学 国際平和ミュージアムに寄贈されました。こうして空き家となった建物だけが残り現在に至っています。