万田坑00
三池炭鉱万田坑 ( 1/4 )
Manda Pit of Miike Coal Mine
熊本県荒尾市、明治時代
万田坑01

【01】
《 はじめに 》

万田坑は遺構の補修工事が行われて2010(平成22)年にリニューアルオープンしていますが、本稿に掲載した写真は補修工事以前に撮影したものです。撮影当時と現在では、竪坑櫓の外観といった遺構の状態や見学可能な範囲などに違いがあります。予めご了承下さい。

万田坑02

【02】

三池炭鉱と万田坑の概要

かつてエネルギー源の中心といえば石炭であり、九州と北海道を中心に大小多数の炭鉱が操業していました。とりわけ、福岡と熊本の県境に位置する三池炭鉱は、明治の始めから平成まで、つまり日本が近代的な炭鉱経営を始めた最初期から閉山が相次ぐ中を最末期まで操業を続けた、炭鉱の歴史そのものといえる存在です。
 
三池炭鉱の石炭層は、主に福岡県大牟田市と熊本県荒尾市の地下から有明海の海底にかけて広がっています。この地域には、石炭の搬出や人員の出入り・換気・排水のため複数の坑口が点在しており、それらは「〜坑」と呼ばれていました。三池炭鉱とはその総称です。
 
各坑口の建設時期や保存状況は様々で解体されたところもありますが、万田坑と別ページで紹介する宮原坑のふたつは、明治時代の施設一式が比較的良好な状態で保たれています。

万田坑03

【03】

貴重な明治時代の竪坑櫓

万田坑を訪れてまず目に止まるのが竪坑櫓(たてこうやぐら)です。この下には深さ約274mの竪坑が掘られていて、竪坑内を昇降するケージ(鋼製のカゴ)によって人員や資材を運んでいました。櫓の上部に滑車があるのがお分かりでしょうか。要するに、竪坑櫓は巨大なエレベーターなのです。万田坑に建設された2本の竪坑櫓のうち第一竪坑櫓は解体されており、1908(明治41)年に竣工した第二竪坑櫓が現存しています。なお、国内に現存する竪坑櫓についてはこちらをご参照下さい。

万田坑04

【04】

巻揚機室

櫓に隣接するレンガ造の建物はケージを昇降する巻揚機が収まっている巻揚機室で、竪坑櫓とほぼ同時期の1909(明治42)年の竣工です。第二竪坑は専ら人員の出入りや換気・排水のための坑口であり、石炭の運び出しは第一竪坑が担っていました(巻揚機は捲揚機とも表記するが、本稿では「巻」の字を使う)。
 
採炭効率の低下から万田坑は1951(昭和26)年に揚炭(石炭の運び出し)を停止、第一竪坑櫓は北海道の炭鉱に移築された一方、第二竪坑の方は揚水(坑内の水を汲み上げること)や坑内管理の用途に引き続き使われていました。1997(平成9)年に三池炭鉱が閉山すると、他の坑口では解体された竪坑櫓もありますが、万田坑は解体を免れて1998(平成10)年に重要文化財の指定を受け、現在に至ります。

万田坑05

【05】

扇風機室と事務所

写真05は坑内の換気する巨大な扇風機を収めていた建物(扇風機室)で、1914(大正3)年頃の竣工です。万田坑の揚炭停止後は事務所に使用。
 
事務所と竪坑櫓の間には、ポンプ室・倉庫・安全燈室・浴室に使われていた建物が並んでいます。万田坑の開坑当初はこちらが扇風機室でした。1905(明治38)年から1914(大正3)年にかけての建設。

万田坑06

【06】

ケージ

写真06が前述のケージ。エレベーターのカゴに相当します。かつてはこれが竪坑にワイヤーで吊り下がっていて、炭鉱夫や資材を載せて地上と坑道を往復していました。

万田坑07

【07】

レールと炭函

万田坑に限らず坑口の周囲にはレールが張り巡らされており、その上を炭函(たんがん)と呼ばれる石炭を積んだトロッコが動いていました。写真07のトンネルの奥に第二竪坑の坑口があります。揚炭していなかったはず第二竪坑櫓の方になぜ炭函があるのかはよく分かりませんが、資材の運搬等に使用していたのかも知れません。

万田坑08

【08】

山ノ神

全国的に炭鉱の守り神とされたのが「山ノ神」です。炭鉱には必ずといっていいほど山ノ神を祀る神社や祠があります。落盤や爆発などの事故が決して少なくなかっただけに、炭鉱夫達は熱心に安全を祈願してしました。工場の敷地内やビルの屋上に祠を設置することは、現代社会においても珍しくありませんが、山ノ神も基本的にはそれと同じです。

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