長崎港沖の炭鉱の島(Google Mapをキャプチャして加工)
かつて「黒ダイヤ」と呼ばれた石炭
19~20世紀、日本が近代化する過程において石炭は最も主要なエネルギー源でした。大量のエネルギーを必要とする火力発電所、製鉄所の溶鉱炉、蒸気機関車などに用いられて産業を根底から支えた石炭は、その重要性から「黒ダイヤ」と呼ばれたほどです。後に石油が台頭しても、石炭火力は発電の一翼を担ってきましたが、使用する石炭は安価な海外産に占められ、コスト的に太刀打ちできない国内の炭鉱はほぼ全て閉山しました。
炭鉱の島が多かった長崎県
石炭の全盛時代、九州の福岡・佐賀・長崎では数多くの炭鉱が操業していました。島に立地する炭鉱が多い点が長崎県の特徴で、長崎市の沖合にも左図のように炭鉱の島々が連なっており、その南西端に位置するのが軍艦島の通称で有名な端島(はしま)です。
軍艦島の由来
ほとんど岩礁に過ぎなかった端島は、炭鉱の経営企業で島自体の所有者でもある三菱の手によって、炭鉱施設と高層集合住宅が密集する一大海上都市に発展しました。大正時代、大阪朝日新聞や長崎日日新聞がその姿を軍艦のようだと報じたことで「軍艦島」との通称が生まれます。とはいえ、島の住民にとってはあくまでも端島であり、軍艦島と呼んだのは昔も今も島外の人々が中心です。本稿は端島/端島炭鉱の呼称を基本とし、文脈に応じて軍艦島も用います。
1810 |
文化7 | 漁民が石炭を発見し、原始的な採掘が始まる |
1869 | 明治2 | 民間が炭鉱開発に着手するが失敗 |
1886 | 明治19 | 渡辺元という人物が第一竪坑を開削 |
1890 | 明治23 | 三菱が端島炭鉱を買収 |
1916 | 大正5 | 最古の鉄筋コンクリート造集合住宅30号棟が竣工 |
〃 | 〃 | 軍艦に似ていると大阪朝日新聞が報道 |
1921 | 大正10 | 軍艦「土佐」に似ていると長崎日日新聞が報道 |
1941 | 昭和16 | 年間411,100トンの最高出炭を記録 |
1946 | 昭和21 | 端島労働組合結成 |
1949 | 昭和24 | 映画『緑なき島』の舞台として端島が登場 |
1955 | 昭和30 | 高浜村から高島町に編入 |
1960 | 昭和35 | 国勢調査によると人口5,267人(最大記録) |
1974 | 昭和49 | 端島炭鉱閉山。全員が離島して無人島になる |
2001 | 平成13 | 三菱が高島町に端島を無償譲渡 |
2005 | 平成17 | 高島町と長崎市が合併 |
2009 | 平成21 | 上陸ツアーが解禁される |
2015 | 平成27 | 「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として遺構の一部が世界遺産に登録される |
端島の歴史
端島の歴史を簡単に振り返っておきます。そもそも長崎では、江戸時代中期に端島の近くの高島で燃える石=石炭が発見されて以来、藩が経営する炭鉱事業が行われていました。江戸時代末期の19世紀初頭、海藻を採るために端島に上陸した漁民が露頭(石炭が露出した層)を発見し、端島でも漁民による小規模な採掘が始まります。
明治になると国の近代化に伴い石炭の需要が急増し、各地で炭鉱開発が本格化。端島ではまず1869〜1874(明治2〜7)年にかけて複数の民間人が採掘に着手し、いずれも失敗に終わりますが、このとき挑戦した人物の息子が1886(明治19)年に竪坑の開削に成功しました。
そして1890(明治23)年、既に高島炭鉱や長崎製鉄所(現在の三菱重工長崎造船所)を所有していた三菱が端島炭鉱を買収。以後、三菱によって島は著しい発展を遂げていきます。土地が狭く、たびたび暴風雨に見舞われる厳しい環境で労働者の住宅を確保するため、1916(大正5)年竣工の30号棟をはじめとする鉄筋コンクリート(RC)造高層集合住宅が次々と建てられ、島は海上都市の様相を呈しました。新聞がその姿を軍艦のようだと報じたのはこの頃です。
【12】30号棟
世界的に先行していたRC造集合住宅
国内では未だ木造住宅が大半だった時代、東京・大阪から遠く離れた九州の離島に複数のRC造高層集合住宅が建設されたことは、日本はもちろん世界的にも極めて突出した事例です。
参考までに、有名な初期RC造集合住宅の竣工年を挙げると、同潤会アパートの第一号である中之郷アパート(東京都、現存せず)が1926(大正15)年、世界初のRC造集合住宅とされる「フランクリン通りの集合住宅」(フランス パリ)が1903(明治36)年、公営住宅の先駆例カール マルクス ホーフ(オーストリア ウィーン)が1927(昭和2)年。パリとウィーンの2件が装飾性を残していたことや、アドルフ ロースが設計した店舗併用集合住宅ロース ハウス(ウィーン、1911・明治44年)が、装飾の無さを理由に批判を浴びたことと比べると、端島の炭鉱住宅がモダニズム建築としていかに先行していたかが分かります。
【13】
戦前・戦中の過酷な労働環境
また、端島炭鉱と高島炭鉱は、当時の炭鉱では主流だった納屋制度(いわゆるタコ部屋)を1897(明治30)年に廃止し、会社から坑夫に賃金を直接渡すようにするなど、労務管理の改善も進めました。しかしながら、ハード・ソフトで先進的な部分があったにせよ、安全や人権意識が低い時代における炭鉱の重労働と危険性は並大抵ではなく、特に過酷な端島は「鬼ヶ島」「監獄島」と坑夫達に恐れられる存在でした。さらに戦時中は中国人・朝鮮人の強制労働も行われていました。
戦後の繁栄
したがって、本当の意味で端島が繁栄したといえるのは、労働者の権利が向上した戦後のことです。最盛期の島の人口は5千人以上、福利厚生施設が充実して生活は島内でほぼ完結、テレビや冷蔵庫などの家電製品はいち早く普及、3交代制で24時間操業を続ける端島は不夜城のように輝いていました。
【14】
閉山と荒廃
しかし、石炭から石油への転換や安価な海外炭の流入によって、コスト的に不利な国内炭鉱は閉山が相次ぎ、端島炭鉱も1974(昭和49)年に閉山のときを迎えます。炭鉱以外に産業が無く、島全体が三菱の社有地である端島でこの先も生活するのは不可能であり、閉山の日から3ヶ月で全住民が離島しました。
無人島となった端島の建物は、風雨と波と塩害に晒されて廃墟化。RC造の建築物は遠目には外形を維持しているものの、実際は劣化が進んでいます。そして数十年が経過。日本に炭鉱があったことなど過去の話になり、一部の研究者と廃墟マニアを除いて端島はほとんど忘れられつつありました。所有者の三菱が上陸を禁止していたことも、端島を遠い存在にしていました。
【15】
産業遺産としての評価
ところが、産業遺産(近代化遺産)を学術的に評価し、観光資源に活用しようとする気運の高まりとともに、端島=軍艦島は注目を集めるようになります。炭鉱で発展した離島の海上都市が現存している事例は世界的にたいへん貴重であり、産業遺産として第一級の価値があるからです。
上陸解禁
三菱から高島町への無償譲渡と、高島町と長崎市の合併を経て、2005(平成17)年に端島が長崎市の一部になると、市は一般公開に向けて検討を始めました。その結果、建物への接近・立ち入りは危険なので無理だとしても、離れた場所からの見学は可能と判断。安全な見学コースを整備した上で、2009(平成21)年に限定的な一般公開に踏み切り、上陸ツアーが行われるようになりました。
以上が端島の歴史の概要です。
本稿の目的
端島(軍艦島)については何冊もの本や写真集が出ている他、ネットで検索すれば島に“非公式”に上陸した人達が撮影した数多くの写真を見ることができます。しかし、正規の上陸ツアーは建物への接近・立ち入りができないため、事前にこれらの資料を読んでいたとしても、実際にどれが何の建物かを遠方から判別するのはなかなか難しいかもしれません。あえて予備知識を仕入れずに遺構の圧倒的迫力を体感するのもひとつの方法ですが、それだと「ああ、すごい」という感嘆だけで終わってしまいがちです。
そこで、本稿は正規の軍艦島上陸ツアーで見える範囲の建物や構造物に対象を絞り、その名称・竣工年・用途・建築的特徴を説明し、ツアー参加者に見学の資料を提供することを主な目的とします。もちろん、現地に行かなくても十分読み応えのある内容です。なお、船で長崎港から端島に向かう途中で船上から見えるものについては、別途「軍艦島クルーズ」という記事で説明しています。そちらもぜひお読みください。
Google Mapをキャプチャして加工
端島の規模とエリア
端島は若干傾いているものの、おおむね南北に細長い島です。大きさは南北480m、東西160m、周囲1,200m。島の中心に小高い山が背骨のようにあって、その尾根を境に、西側と北側が炭鉱労働者と家族の住宅や学校・福利厚生施設がある住居エリア、東側と南側が炭鉱施設が密集する鉱業所エリアになっています。
見学可能な範囲
船が接岸できるのは鉱業所エリアにある桟橋のみ。左の写真の赤線が見学コースです。ご覧の通り、安全上ごく一部しか立ち入りは許されておらず、上陸して比較的詳しく見ることができるのは、鉱業所エリアの南半分と住居エリアの南端に限られます。上陸前に船で島を一周するので(周回しないツアーもある、事前に確認のこと)、住居エリアの高層集合住宅群などは船上からの見学になります。ただし、残念ながら奥の方はあまり見えません。
ツアーで見えるものだけを紹介
したがって、本稿に掲載する建物や構造物は、船上や見学コースから見えるものだけになります。可能な限りピックアップしていますが、他の建物に隠れているものや、見えてもあまりに小さいものは、取り上げていません。資料としては不完全ですが、ツアー参加者の目線を重視したこと、そして、自分が実際に見たものを紹介する「建築マップ」の主旨から、このような方針を採っています。より詳しく知りたい方は下記の参考文献をお読みください。
本稿の構成
以下、2~7ページにわたり、上陸ツアーの行程をほぼなぞる形で島内の建物や構造物を紹介していきます。ツアーの行程は、長崎港を出港して東側から端島に接近し、島を反時計回りに一周、それから接岸して上陸、見学コースを歩いた後、船に戻って帰港するというものです。東側から接近すると正面には鉱業所エリアが広がっていますが、炭鉱施設は後半にまとめることにして、2~5ページで船上から見た住居エリアの炭鉱住宅などを、6~7ページで上陸後に見た鉱業所エリアの施設などを中心に説明しています。また、8ページには端島とその同時代の建物の年表を載せています。
建物名称については、住居エリアの建物は会社が付けたと思われる棟番号があり、各種の軍艦島関連書籍はこの番号に基づいて記述しているので、本稿もそれに従います。棟番号以外の通称や用途も、おおむね関連書籍に準じます。
名称 | 端島炭鉱(軍艦島) Hashima Coal Mine ( Gunkanjima ) |
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所在地 | 長崎市高島町端島 |
操業期間 | 1886(明治19)年〜1974(昭和49)年 |
規模 | 南北480m、東西160m |
建物の構造 | 鉄筋コンクリート造、木造、レンガ造等 |
備考 | いくつかの海運会社が実施しているツアーの参加者のみ上陸が許される。詳しくは「軍艦島クルーズ」等で検索。 上陸は天候や波の高さに左右され、上陸せずに島の周回のみやクルーズ中止もあり得る。年間の上陸率は平均7割程度。 上陸可能な範囲は島内のごく一部。建物への接近・立ち入りは禁止。 世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産。「建築マップ」では構成資産をいくつか紹介している。その一覧はこちら。 |
スライドショー 13枚(写真をクリックすると次を表示、下辺にマウスカーソルを合わせるとサムネイルを表示します)
公開日:2012年11月24日、最終更新日:2015年8月9日、撮影時期:2011年7・9月
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)