石炭は昔も今も重要なエネルギー源
国家が近代化を達成する上で必要とするものはいくつかありますが、何よりも欠かせないのはエネルギー源です。18〜19世紀の産業革命期、主要なエネルギー源として最初に台頭したのは石炭でした。石油や天然ガスに押されてシェアは次第に下がったものの、21世紀も石炭は火力発電の一定割合を保っており、原発の先行きが不透明になった現在、資源としての価値はいささかも低下していません。
産業遺産として再評価される炭鉱
日本でも明治以降、北海道や九州を中心に多くの炭鉱が操業していましたが、現在はほとんど閉山して 註1 石炭は輸入に頼っています。閉山した炭鉱の多くは解体されてしまい、日本に炭鉱があった痕跡も記憶も無くなりつつあるのが現状です。その一方、産業遺産への関心の高まりを受けて、現存する炭鉱遺構を保存する動きも広がっています。
そうした中、最も有名な炭鉱遺構といえばやはり長崎市の南西に浮かぶ軍艦島こと端島炭鉱でしょう。高層住宅が林立する島影が軍艦に見立てられたその姿はまさに海上都市そのもの。長らく立ち入り禁止でしたが、2009(平成21)年に上陸が解禁されると人気の観光地として人々の関心を集めるようになりました。ですが、炭鉱の島はここだけではありません。

西彼杵炭田の主な炭鉱の島々(Googleマップのキャプチャを加工)
炭鉱の島々
長崎県の西彼杵(にしそのぎ)半島から長崎半島の西方沖にかけては、西彼杵炭田という炭層(石炭の層)が広がっています。沖合の海底炭層に到達するには離島から坑道を掘り進む必要があり、こうした理由から島に炭鉱が多いことが長崎県と他の産炭地との大きな違いです。左の地図は西彼杵炭田の主な炭鉱の島を示したもの。端島(軍艦島)は南端に位置します。
閉山から長い年月が過ぎ、大半の島々は炭鉱の痕跡がわずかしか残っていません。しかし、例外的に多くの遺構が現存する島がふたつあります。ひとつは端島、そしてもうひとつが池島です。

【12】
外海地区と池島の歴史

出津教会
江戸時代の外海地区は隠れキリシタンの潜伏地で、解禁後の明治時代はド・ロ神父というフランス人宣教師が赴任して伝道と貧困救済に尽力するなど、この地区は歴史的にキリスト教と深い関わりがあり 註2 、記録によれば池島でも1630(寛永7)年に殉教者が出ています。近世から終戦直後までの池島は、半農半漁と出稼ぎで生計を立てる人口300人台の離島でした。
1952 |
昭和27 | 池島炭鉱の開発に着手 |
1955 | 昭和30 | 坑道が炭層に到達。神浦村から外海村に |
1958 | 昭和33 | 池島港竣工 |
1959 | 昭和34 | 営業出炭開始 |
1960 | 昭和35 | 町制施行、外海町に |
1967 | 昭和42 | 排気竪坑櫓竣工 |
1981 | 昭和56 | 第二竪坑櫓竣工 |
2001 | 平成13 | 池島炭鉱閉山 |
2002 | 平成14 | 「石炭技術海外移転事業」開始 |
2005 | 平成17 | 池島を含む外海町が長崎市に編入される |
2006 | 平成18 | 坑内見学ツアーを初めて実施 |
2009 | 平成21 | 池島アーバンマインによるリサイクル事業開始 |
2011 | 平成23 | 恒常的な坑内見学ツアーを開始 |
池島への炭鉱進出と繁栄
その池島で炭鉱開発が始まったのは1952(昭和27)年、石炭の出荷開始は1959(昭和34)年のこと。明治から昭和初期の開坑が多い西彼杵炭田の中では、戦後に開発された池島はかなり新しい炭鉱です。
池島炭鉱を手掛けた会社を松島炭鉱 註3 といい、もともと池島の北にある松島で大正初期に炭鉱経営を始めましたが、創業地である松島は1937(昭和12)年に閉山しています。同社は西彼杵炭田北端の大島にも進出して1936(昭和11)年から出炭を開始(閉山は1970・昭和45年)。よって、池島は同社の3番目の炭鉱ということになります。
炭鉱の進出に伴い労働者とその家族が池島に移住し、最盛期の人口は約7700人に達します。炭鉱施設や集合住宅が建ち並び、島の風景は大きく変貌。炭鉱は24時間3交代制で操業し続けるため街から灯が消えることはなく、池島は活気に満ちあふれていました。

【13】
九州最後の炭鉱
石油へのエネルギー転換と安価な海外炭の流入により国内炭鉱の閉山が相次ぐ中も、池島炭鉱をはじめいくつかの炭鉱は政策的な理由で存続しますが、いわゆる“ビルド鉱”と呼ばれたそれらもやがて閉山していきます。1997(平成9)年に閉山した三池炭鉱(福岡・熊本県)に続き、池島炭鉱も21世紀になったばかりの2001(平成13)年に閉山。こうして一大産炭地だった九州からすべての炭鉱が消えました。
閉山後の状況
閉山で基幹産業を失った池島は人口が減少。とはいえ端島のような無人島にはならず、2013(平成25)年初頭の人口は200人台です。炭鉱進出以前からの集落の人々の他、炭鉱労働者として島に来て閉山後に残った人もいます。県内の元炭鉱の島々はどこも地域経済の活性化が課題になっていて、早くに閉山した松島は火力発電所、大島は造船所の誘致に成功しましたが、池島で新たに始めたリサイクル事業は少々苦戦しているようです。
炭鉱システムが丸ごと現存
池島炭鉱は閉山からそれほど年月が経っていないことと、海外研修生に技術を伝承する事業が閉山後の数年間行われていたため、炭鉱の施設と坑道がほぼそっくり残っています。国内で炭鉱のシステム一式が現存しているのは、この池島炭鉱と現役の坑内掘り炭鉱である北海道の釧路コールマインくらいでしょう。
通常、炭鉱は閉山とともに施設が解体され、坑口は閉鎖されます。確かに竪坑櫓などが残っているところはありますが、それは炭鉱というシステムのごく一部に過ぎません。例えば端島炭鉱(軍艦島)の場合、労働者の住宅は多数残っているものの損傷が極めて激しく、炭鉱施設の方は大半が失われています。それゆえ、炭鉱施設に加えて住宅街までもが良好な状態で揃っている池島炭鉱は、産業遺産としてたいへん重要な存在なのです。その価値は、世界遺産に登録されたイギリスやドイツの炭鉱遺構に勝るとも劣らないといっても過言ではありません。
以上、池島炭鉱の歴史と現状について説明しました。

池島の全景(上が北、Googleマップのキャプチャを加工)
島の地形と島内の位置関係
池島は標高60〜80mほどの台地が大部分を占めていて、低地になっている北東部に港があります。炭鉱施設は台地の東半分から池島港にかけてと南西端に立地。住宅は、炭鉱労働者向けの鉄筋コンクリート造集合住宅(社宅と公営住宅の2種類)が台地の西半分と港の周辺に並んでいる他、炭鉱進出以前からの古い集落が島中央の北斜面に存在します。
見学時の注意
池島炭鉱の施設や坑道は見学ツアーに参加すれば一般人でも見ることができます(5ページ参照)。また、施設の外観や住宅、まちなみは公道から普通に見学可能です。その際は、住んでいる方々のプライバシーに配慮し、マナーを守って散策してください。
本稿の主旨
本稿では、池島に残っている炭鉱施設を中心に紹介するとともに、池島への交通アクセスと宿泊方法についても説明します。集合住宅については別途記事「池島炭鉱 住宅編」をご参照ください。なお、掲載した写真はすべて見学ツアー中や管理会社の許可を得て立ち入りした場所、および公道や公共空間にて撮影したものです。
炭鉱の工程とページ構成
最初に、石炭を掘ってから出荷するまでを大まかに述べると「採掘→選炭→貯炭→積込」という順序になります。また、採掘現場と各工程の施設は石炭・物資・人員を運ぶ輸送手段(ベルトコンベヤ、構内軌道等)で結ばれています。これらの現場と施設で構成されたシステムが炭鉱です。
炭鉱の説明をするなら本当はこの工程順に述べた方がいいのかもしれませんが、いきなり坑道の写真から始めても読者が戸惑うだけかと思い、本稿では上陸して島の奥に歩いてゆく途中で目にする順番でページを進めることにします。上記のGoogleマップの写真で説明すると、池島港で下船してまず見えるのは積込施設・貯炭場・選炭工場で、港周辺の住宅街を抜けたところに発電所があります。ここまでが2ページ。そして、島の台地にある排気竪坑櫓(3ページ)、南西端の第二竪坑櫓(4ページ)へと進んだ後、坑道の内部(5ページ)に入ります。この順番は炭鉱の工程を逆に辿っていることになります。
名称 | 池島炭鉱 施設編 Ikeshima Coal Mine ( facilities ) |
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設計 | 未確認 |
所在地 | 長崎市池島町 |
用途 | 炭鉱 |
期間 | 着工 1952(昭和27)年 操業期間 1959〜2001(昭和34〜平成13)年 |
島の規模 | 東西約1.5km、南北約1km、周囲約4km、面積約0.9km2 |
施設の構造 | 主に鉄骨造、一部 鉄筋コンクリート造・木造 |
交通 | 船舶:佐世保・瀬戸・神浦の各港と池島港を結ぶ3本の航路がある(6ページ参照)。 |
備考 | 炭鉱施設内部を見学できるツアーを実施中(5ページ参照)。建築物の外観は公道から見られる。住民のプライバシーに配慮のこと。 島内は建築物や炭鉱施設の解体作業が少しずつ進んでいる。 |
補註
- 日本の炭鉱は全て閉山したと誤解している人が多いが、実は北海道釧路市の釧路コールマイン(旧太平洋炭鉱)が現在も坑道での石炭採掘を行っている。この他、北海道では露天掘りの炭鉱がいくつか存続している。
- キリシタン弾圧下における信仰を描いた遠藤周作の小説『沈黙』の舞台となったのが旧外海町で、遠藤周作記念館が置かれている。また、禁教令が解かれた後に赴任したド・ロ神父はこの地に出津教会や大野教会などを建設し、伝道に生涯を捧げた。
- 池島炭鉱の経営会社は何度か社名を変更した。その沿革については省略するが、会社の発端となった松島炭鉱が三井系だったことから、池島炭鉱も一貫して三井系である。現在、池島炭鉱を管理している会社は三井松島リソーシスという。
スライドショー 8枚(写真をクリックすると次を表示、下辺にマウスカーソルを合わせるとサムネイルを表示します)
公開日:2013年3月7日、最終更新日:2014年4月12日、撮影時期:2005年9月、2008年3月、1ページの数枚のみ2011年9月
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)