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池島炭鉱 住宅編 1/6 )
Ikeshima Coal Mine ( apartments )
長崎市池島町
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【11】
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西彼杵炭田の主な炭鉱の島々(Googleマップのキャプチャを加工)

長崎県西方沖に浮かぶ炭鉱の島々

長崎県の西方海域には西彼杵(にしそのぎ)炭田という炭層(石炭の層)が広がっており、海底の石炭を採掘するため、明治から昭和にかけていくつもの島々に炭鉱が建設されました。その中で一番有名な島といえば軍艦島こと端島(はしま)でしょう。西彼杵炭田の最南端に位置する端島炭鉱は、鉄筋コンクリート造集合住宅が林立する世界にも稀な海上都市に発展。閉山後は無人島と化して荒廃したものの、2009(平成21)年に部分的な上陸が解禁されると多くの見学者が訪れるようになりました。
 
端島以外の島については、閉山から数十年が経過した現在、炭鉱の痕跡はあまり残っていませんが、実は端島以上に炭鉱遺構が現存する島があります。それが池島です。

池島炭鉱の概要

池島は長崎県の西彼杵半島の沖合約7kmに浮かぶ小さな島です。以前は半島側の外海(そとめ)町に属していましたが、2005(平成17)年に同町が長崎市と合併したため池島も長崎市の一部になりました。
 
終戦直後までの池島は半農半漁の自給自足的な離島に過ぎませんでした。この島に炭鉱が進出したのは1952(昭和27)年のこと。以後、炭鉱施設と労働者の住宅が建ち並んで島内の様相は一変、池島は繁栄を極めます。各地の炭鉱が次々閉山する中も操業を続け、1997(平成9)年に福岡県の三池炭鉱が閉山した後は九州最後の炭鉱となりますが、その池島炭鉱も2001(平成13)年に遂に閉山しました。

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【12】池島の全景。遠方からも集合住宅群が確認できる。

炭鉱の施設と住宅が丸ごと現存

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池島炭鉱の選炭施設

国内のほとんどの炭鉱は閉山とともに解体されました。竪坑櫓などが残っているところが何カ所かありますが、それは採掘や選炭といった各工程に関わる施設群のごく一部に過ぎません。多数の建物が残る端島炭鉱(軍艦島)にしても集合住宅が中心で、炭鉱施設の大部分は消滅しています。
 
ところが池島の場合、閉山からそれほど年数が経っていないことや、外国人向けの炭鉱技術研修が閉山後の数年間行われていたおかげで、炭鉱の施設や労働者の住宅といった炭鉱に関わるシステム一式がそっくり残っているのです。ここまで完全な炭鉱の現存例はたいへん珍しく、産業遺産としての価値は計り知れません。
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国土交通省 国土画像情報から引用して加工、撮影時期は1974(昭和49)年度。右下はGoogleマップのキャプチャ。本稿執筆時点(2013・平成25年)の状況とあまり変わらないが、いくつかの住棟は解体されている。なお、第二竪坑櫓は撮影時にはまだ存在しない。
 

島の地形と島内の位置関係

もう少し具体的に島の様子を説明します。池島の大きさは東西約1.5km、南北約1km、周囲約4km、面積約0.9km2。大部分は標高60~80mほどの台地で、南の海岸線は急斜面、北東部に港があります。炭鉱施設は台地の東側から池島港にかけて集中し、南西端に第二竪坑櫓が建っています(上掲写真の撮影時は未完成)。住宅は、鉄筋コンクリート(RC)造集合住宅が台地の中央から西側にかけて、および港の周辺に林立。その数は上掲写真を数えると六十数棟といったところでしょうか。その他、島中央の北斜面に炭鉱進出以前から住んでいた島民の集落があります。

集合住宅建設の経緯

前述の通り、池島で炭鉱開発が始まったのは1952(昭和27)年、そして本格的な操業(石炭の出荷)が始まったのは1959(昭和34)年のことです。炭鉱労働者とその家族が大挙して島に移り住んだ結果、人口は炭鉱進出前の300人台から最盛期には約7700人まで増えました。炭鉱労働者の住宅、いわゆる炭鉱住宅といえば昔ながらの木造長屋が全国的には主流ですが、土地に限りがある小島に七千人以上もの住宅を確保するには中高層住棟を建設するしかありません。こうして池島に大規模な団地が出現したのです。建設時期はおおむね昭和30年代と思われます(正確な竣工年は未確認)。

閉山後の状況

炭鉱の閉山後、ほぼ唯一の産業を失った池島は人口が流出し、2013(平成25)年初頭の時点で200人台まで減少しました。炭鉱の施設と集合住宅はまだ残っているものの、施設は稼働を停止し、住棟の大半は空き家と化して建物ごと閉鎖されるなど、率直にいって島内は閑散とした雰囲気が漂っています。損壊著しい端島ほどではないにせよ、放置状態の上に海が近いことによる塩害の影響を考えれば、現存建造物の老朽化は早く進行するでしょうし、危険な状態に陥る前の解体もあり得ます。実際、筆者が初めて訪れた2005(平成17)年以降に数棟ほど解体されました。こうした状況を踏まえ、貴重な産業遺産の記録として、本稿では池島に残る建造物のうち集合住宅を中心に紹介いたします。炭鉱施設については別の記事「池島炭鉱 施設編」をご覧ください。

集合住宅の建設主体と住棟のタイプ

池島の集合住宅には炭鉱会社の社宅と自治体の公営住宅の2種類があります。通常、炭鉱住宅は会社が建設しますが、炭鉱操業時代の池島はほとんど炭鉱関係者しか住んでいなかったので、実質的には公営住宅も炭鉱住宅といえます。建設当時の自治体は外海町、合併に伴い今は長崎市の市営住宅という扱いです。社宅と公営住宅は混在しており、壁面の住棟番号に「公住」と書いてある住棟は公営だと判断できるものの、それがなければどちらなのかよく分かりません。階数は4階建ての中層棟が最も多く、他には2階・5階・8階建てが存在します。2階建て住棟はメゾネットタイプのテラスハウスで、4・5・8階建ては階段室型です。ただし、中層棟の一部に片廊下型がありました。
 
本稿の構成は下記の通りです。便宜上、島のエリアを北東部・中央部・西部に分け、西部はさらに中層棟と高層棟で別ページに、そして最後にRC造住棟以外の建物など、という順番で説明を進めていきます。

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北東部(池島港周辺)
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中央部(台地)
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西部(中層棟)
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西部(高層棟)
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集落など
名称

池島炭鉱 住宅編

Ikeshima Coal Mine ( apartments )

設計

未確認

所在地

長崎市池島町

用途

集合住宅

竣工

昭和30年代以降と思われる

構造・規模

鉄筋コンクリート造

面積:不明、階数:地上2・3・4・5・8階

交通

船舶:佐世保・瀬戸・神浦の各港と池島港を結ぶ3本の航路がある(池島炭鉱 施設編6ページ参照)。

備考

空き家が多いとはいえ住んでいる方々もおられるので、見学の際はプライバシーに十分配慮すること。

島内は建築物や炭鉱施設の解体作業が少しずつ進んでいる。

左から池島炭鉱、大野教会出津教会黒崎教会


公開日:2013年5月19日、最終更新日:2014年4月12日、撮影時期:2005年9月、2008年3月
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)

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