【02】
大浦天主堂の由来
大浦天主堂は長崎市の有名な観光名所で毎日たくさんの観光客が訪れますが、この教会の正式名称が日本二十六聖殉教者天主堂であることはあまり知られていません。
1597(慶長元)年、長崎の西坂の地でキリスト教禁令のために26人の信徒が処刑されてしまいました。この事件はヨーロッパにも伝えられて後に26人は聖人に列せられます。幕末に横浜・長崎などが開港されると街には外国人居住区が設けられて、教会も建てられます。大浦天主堂はこの時期に日本二十六聖人に捧げる教会として建設されました。
信徒発見の現場
建立当時はまだキリスト教禁令が解けておらず、教会はあくまでも外国人のためのものでした。1865年に大浦天主堂を数十人の日本人が訪れて神父に信仰を打ち明け、二百数十年間も信仰を続けてきた隠れキリシタンの存在が明らかになります。これが「信徒発見」と呼ばれる歴史的な出来事です。
しかし、未だ禁令下での信仰の表明は「浦上四番崩れ」という弾圧事件を引き起こしてしまいます。西欧諸国の圧力でようやく禁令が解除されたのは1873(明治6)年のことでした。
中世の殉教、長年の潜伏と迫害、そして原爆の惨禍。大浦天主堂は日本におけるキリスト教の受難の歴史の象徴といえるでしょう。
【03】
日本最古の西洋建築
大浦天主堂の竣工は1864(元治元)年。幕末の外国人向け教会としては、1862年に横浜天主堂が完成していましたが、これは関東大震災で崩壊したため、大浦天主堂が日本に現存する最古の教会です。それだけでなく西洋建築としても最古の建物になります。
その重要性から1933(昭和8)年には旧制度下の国宝に指定され、戦後の1953(昭和28)年に改めて国宝に指定されています。西洋建築で国宝の指定を受けたのは現時点では大浦天主堂と東宮御所のふたつしかなく、建築史上たいへん貴重な建物です。
創建時と現在の違い
大浦天主堂はパリ外国宣教会から日本に派遣されたフュレ神父とプチジャン神父が設計、日本人の大工棟梁が施工しました。古写真によると、この1864年当時の教会は、ゴシックとイエズス会スタイルが混在していたり立面の下半分がナマコ壁だったりなど、今とは似ても似つかぬ風変わりなデザインだったようです。現在の姿になったのは1875(明治8)年の増改築によります。
1945(昭和20)年の原爆投下では被害を受けたものの、爆心地から離れていたことや長崎市の地形の複雑さが幸いして倒壊・焼失は免れました。
【04】
建築的な特徴
1875(明治8)年の増改築後のデザインはゴシック様式です。明治初期の教会の中ではプロポーションはかなりいい方でしょう。ゴシックにしては控えめな立面だと思いますが、階段の下から見上げると、柱型や尖塔アーチが垂直性を強調して神聖な雰囲気が感じられます。
構造は創建時は木造で明治12年の増築部分はレンガ造。ただし、外壁はしっくい塗りのためレンガ造とは分かりにくい。
内部空間
撮影禁止のため内部の写真は掲載できませんが、内部はリブ ヴォールト天井を持つゴシック様式の見事な空間です。平面は創建時の三廊式から明治の増改築で五廊式に拡張されたものの、ほぼ創建当時の状態を保っていると思われます。
旧羅典神学校
設計 ド・ロ神父
竣工 1875(明治8)年
備考 国指定重要文化財
旧羅典(ラテン)神学校は、キリスト教の禁令が解除された後、日本人聖職者を養成するために建てられた神学校です。教会組織ではラテン語が公用語で、神学校ではまずラテン語を教えていたことから羅典神学校と呼ばれていました。設計は、長崎県の外海(そとめ)地区で伝道に生涯を捧げたド・ロ神父。現在はキリスト教の歴史に関する資料館として公開されています。
旧長崎大司教館
設計 ド・ロ神父+鉄川与助
竣工 1915(大正4)年
大司教館は神父が事務的な仕事などを行うところ。旧長崎大司教館は上述のド・ロ神父と、教会建築の第一人者と名高い鉄川与助が協働で設計し、鉄川が施工を手掛けました。現在は長崎コレジオという神学校として使われています。したがって非公開です。
名称 | 日本二十六聖殉教者天主堂(大浦天主堂) 26 Japanese Martyrs Church (Oura Church) |
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設計者 | フュレ神父(フューレ神父とも)+プチジャン神父 Father L.T.Furet + Father B.T.Petitjean |
所在地 | 長崎市南山手町5-3 |
用途 | 教会(宗派はカトリック) |
竣工 | 1864(元治元)年、改修:1879(明治12)年 |
構造 | レンガ造、木造 |
交通 | 鉄道:長崎電気軌道(路面電車)大浦天主堂下下車、徒歩約5分。 |
備考 | 国宝 世界遺産暫定リスト「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成要素のひとつ 観光地とはいえ本来ここは信仰の場です。見学の際は十分な配慮をお願いします。内部撮影禁止。 |
左からナガサキピースミュージアム、大浦天主堂
補註
- 初期の大浦天主堂は1864年に建築工事が終わり、翌年に献堂式が行われた。そのため、竣工を1865年と説明するサイトもあるが、献堂式をもって教会の完成と見なす考え方からいえば間違いではない。本稿は建築系サイトの記事なので1864年を竣工年とする。
- 大浦天主堂が観光名所になったため、すぐ近くに別途建てられた大浦教会の方に信者の活動は移っている。このことから「旧大浦天主堂」等と記載するサイトや書籍もある。ただし、クリスマスなど特別な日は大浦天主堂の方でミサが行われる。
- 大浦天主堂は日本二十六聖人に捧げられた教会だが、処刑が行われた場所に建っているわけではない。その場所(長崎市西坂)には日本二十六聖人記念聖堂という別の教会がある。大浦天主堂の正式名称である日本二十六聖殉教者天主堂と名前が似ているので注意。
リンク
- 大浦天主堂 公式サイト
- 大浦天主堂、ルイ・テオドル・フューレ、ベルナール・プティジャン ウィキペディア
- 大浦天主堂 文化遺産オンライン
- 長崎県東京事務所 > 大いなる遺産ながさきの教会 > 旧大浦天主堂
- 長崎の教会 > 長崎南地区 大浦天主堂
- 長崎新聞 > めざせ世界遺産 > 大浦天主堂(上)・(中)・(下)
- ナガジン! > 国宝・大浦天主堂とキリシタンの歴史
- あ!っとながさき > 大浦天主堂
- あじこじ九州 > 長崎県 > (国宝)大浦天主堂
- 旅する長崎学 > 教会巡礼のマナー
- 長崎県 > 長崎から世界遺産を「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」
- おらしょ こころ旅 > 大浦天主堂
- NHK映像マップ みちしる 新日本風土記アーカイブス > 大浦天主堂 和洋折衷の美の世界、大浦天主堂 長崎を代表する教会
参考文献
- 『三沢博昭写真集 大いなる遺産 長崎の教会』三沢博昭、発行 智書房、発売 青雲社
- 『別冊太陽127号 日本の教会を訪ねて II』平凡社
- 『建築探偵 神出鬼没』藤森照信、朝日新聞社
公開日:2004年7月18日、最終更新日:2011年7月23日、撮影時期:2003年7月・同年11月・2005年10月
カメラ:Nikon COOLPIX775、Nikon D50(Photoshopで修正)