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西長堀アパート ( 1/2 )
Nishinagahori Apartment
大阪市、日本住宅公団大阪支所 + 大阪建築事務所、1958 (昭和33)年
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【01】
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【02】東立面

公団が建設した初期の高層集合住宅

日本住宅公団(現・都市再生機構)の団地というと、ほとんどの人は4~5階建ての板状の建物が整然と並んだ光景を思い浮かべるでしょう。その一方、公団が早くから高層集合住宅も建設していたことは、あまり知られていません。こう書くと、建築に詳しい人なら晴海高層アパート(1957・昭和32年、東京都)註1 の名前を挙げるかと思いますが、その同時期に大阪市でも高層棟が完成していました。関東の晴海高層アパートに対する関西の高層集合住宅の先駆例─それが西長堀アパートです。晴海は解体されたものの、西長堀は現在も残っています。
 
西長堀アパートをはじめとして、公団は土地所有者の協力を募り、低層部に店舗や事務所といったテナントが、高層部に住宅が入るという構成の中高層集合住宅を都市部に建設していました。これを市街地住宅といいます 註2

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【03】北立面(左)と西立面(右)

高層集合住宅の歴史

まず日本の高層集合住宅の歴史を簡単に振り返っておきます(“高層”の定義は明確ではないが、ここでは7階以上とする)。日本初の鉄筋コンクリート(RC)造集合住宅は、1916(大正5)年に竣工した長崎県の端島炭鉱(軍艦島)の鉱員住宅30号棟で、これは7階建でした。さらに端島では大正時代に9階建、1945〜1958(昭和20〜33)年にかけて9〜10階建の住棟が建てられています。
 
都市部においても大正末から昭和初期にかけてRC造集合住宅の建設が相次ぎますが、階数は中層が多くて同潤会アパートでも最高は6階建。筆者が調べた範囲では、銀座アパートメント(現・奥野ビル、1932・S7頃、東京都、現存)と野々宮アパート(1936・S11、東京都、非現存)の7階建が最も階数が高いと思われます。しかし野々宮アパート以後、戦争が続いた昭和10年代はRC造集合住宅の建設はほぼ途絶えてしまいました(端島炭鉱は例外)。

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【04】長堀通から見る

戦後初期の状況

戦後は1948(昭和23)年の高輪アパート(東京、非現存)からRC造集合住宅の建設が再開されます。資材不足のためしばらくは3〜4階の中層が続いたものの、東京都住宅協会(現・東京都住宅供給公社)が1953(昭和28)年に11階建の宮益坂アパート 註3 を建設。これが戦後初の高層集合住宅です。昭和30年代に入ると民間が高級賃貸アパートとして高層棟を建て始めるとともに、日本住宅公団(以下、公団)も建設に乗りだし、晴海と西長堀が誕生します。

公団が大阪府から事業を引き継ぐ

実はもともと西長堀アパートは大阪府が計画していたもので、昭和29〜30年頃には既に設計を終えていたようです。ところが府内部の意見調整が難航して着工できず、結局公団が事業を引き継いで1958(昭和33)年に完成させました。つまり、もし大阪府が建設していたら、西長堀アパートと東西の対になる存在は晴海高層アパートではなく宮益坂アパートだったことになります。

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竣工当時の姿(『日本住宅公団10年史』から引用)

斬新なデザインの北立面

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Google Earthのキャプチャ

西長堀アパートは東西に長いコの字型で、住戸は南・東・西に面しています。大阪府から公団に引き継がれた際にある程度の設計変更が行われましたが、資料写真(下記リンク先参照)と見比べると東立面(写真02)はさほど変わっていないようです。

一方、大きく変わった部分にしてこの建築最大の特徴が北立面。北側には廊下が配置されていて、設計当初は吹きさらしだった片廊下は、縦長窓が連続する壁面で覆われたデザインに変わりました。竣工時はまだ北側の道路(長堀通)が埋立前の長堀川だったので、川越しにストライプ状のモダンな大壁面を見た人々は高層集合住宅の威容にさぞ驚いたことでしょう。その後、長堀川は埋め立てられて道路と西長堀アパートの間にビルが建ち、北立面全体を見渡すことは難しくなりました(写真04)。

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【05】メインエントランス

廊下を内部化した理由

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一般的な集合住宅の廊下は、右の写真のように腰壁しか付いていない吹きさらしの空間です。これは「外気に開放されている廊下は基本的に床面積には算入しない」という規定と、コスト削減のため。

では、なぜ西長堀アパートは吹きさらしでないかというと、昭和30年代はまだ不算入規定がなかったことがひとつ。ただし、当時から吹きさらし廊下の事例はありました。より大きな理由は、寒い冬に吹きさらしの長い廊下を居住者に歩かせることを設計者が良しとしなかったからです 註4 。さらに、居室の採光面積といった制約がない廊下の窓は比較的自由にデザインができます。このような事情から、集合住宅らしからぬ立面が生まれたわけです。

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【06】

1階のデザイン

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ストライプ状の立面に関心が集まりがちですが、1階の壁面もなかなか凝っています。この部分にブロックや石といった組積造的な素材を用いているのは、上部とのメリハリを付けるとともに、1階に“基壇”の意味を持たせるためでしょう。なおかつ、穴あきブロックや細長く割った石(写真07)が旧来の重厚さを打ち消して、上部のグラフィカルな立面と上手くバランスが取れています。
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【07】

市街地住宅も再評価とリノベーションを

高層集合住宅がまだ珍しかった当時、西長堀アパートは“マンモスアパート”と呼ばれていました。家賃も高かったので住民は裕福な人に限られ、作家の司馬遼太郎、女優の森光子、野球選手の野村克也ら各界の著名人が入居していたなど、現代の高級マンションに相当するといっても過言ではありません。
 
民間マンションが普及する以前、公団市街地住宅は都市住宅の一翼を担った存在でした。しかし、近年はURから民間事業者に譲渡された後、老朽化や陳腐化を理由に少しずつ建て替えが進んでいます。事業的に仕方ないとはいえ、これまで積み上げてきたストックを解体してばかりでいいのでしょうか。団地の再評価とリノベーションに関心が集まっている昨今、市街地住宅の方もリノベーションが増えることを期待したいものです 註5

名称

西長堀アパート(西長堀団地)

Nishinagahori Apartment

設計

日本住宅公団大阪支所(現・都市再生機構 / UR都市機構)

Japan Housing Corporation Osaka Branch

( Urban Renaissance Agency )

大阪建築事務所(現・大建設計)

Osaka Architect & Associates( Daiken Sekkei Inc. )

所在地

大阪市西区北堀江4-2-40

用途

集合住宅

竣工

1958(昭和33)年

構造・規模

構造:鉄筋コンクリート造、階数:地下1階 地上11階

面積:未確認

交通

鉄道:地下鉄 西長堀駅下車すぐ

備考

見学・撮影の際は住民の迷惑にならないようにご注意下さい。


補註

  1. 晴海高層アパートは前川國男の事務所と日本住宅公団の設計で1958(昭和33)年に竣工した。場所は東京都中央区晴海。前川國男の代表作のひとつにして、日本の集合住宅史における金字塔というべき建築。1997(平成9)年に解体。
  2. 晴海高層アパートは普通の団地が高層化したもので市街地住宅ではない。また、ほとんどの市街地住宅が民間との共同事業であるのに対し、西長堀アパートは本文で述べたように大阪府から引き継ぐという少し特殊な経緯を辿っている。
  3. 宮益坂アパート(正式名称は宮益坂ビルディング)は、東京都住宅協会(現・東京都住宅供給公社)の分譲アパートとして1953(昭和28)年に竣工した。東京都渋谷区に現存している。
  4. 大阪建築事務所の西嶋徳太郎氏の記述。『集合住宅の時間』(大月敏雄、王国社)157頁より。
  5. 実際にリノベーションされた公団市街地住宅は筆者の調査で1ヶ所。大濠公団住宅(福岡市、1965・昭和40年)がTHE APARTMENTという民間賃貸住宅になったケースがある(詳細記事)。

公開日:2013年2月2日、最終更新日:2014年12月13日、撮影時期:2011年11月
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)

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