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阿佐ヶ谷住宅 2/5 )
Asagaya Housing
東京都杉並区、津端修一 + 大高正人 他、1958(昭和33)年、現存せず
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【201】

団地の配置計画

一般的な団地は、全住戸に均等な日照時間を確保するため、居間・食事室を南に向けて平行に並べて配置されます(南面平行配置という)。ただ、それでは景観が画一的になるので、日照に支障のない範囲で住棟を斜めに振ったり、ボックス型やスターハウスといった板状以外の住棟を適宜配置するなど、様々な工夫が行われてきました。阿佐ヶ谷住宅もそのような工夫のひとつですが、板状住棟だけを用いて優れた配置計画がなされています。


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阿佐ヶ谷住宅の配置計画の骨格は、ループ状の道路です。数カ所ある敷地出入口のうち、敷地西側の一般道路から斜めに延びる道路がメインアプローチで、その先は敷地の中央でループを描いています。設計者の津端修一氏はこの道路の設計プロセスについて「そんなに時間をかけてませんね。おそらく。もう、ほとんどフリーハンドで。」 註3 と述べていますが、だからといって決しておおざっぱに線を引いたわけではなく、よく見ると不定型な敷地形状に上手く合わせながら4つの区画に分割したことが読み取れます。いかにも自然に見える区画割りが絶妙です。カーブに沿って連なるテラスハウス群(写真201)は阿佐ヶ谷住宅を象徴する光景ですが、あくまでも計画的な配置であるのに、古い集落を歩いているような感じがします。
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【202】A街区の広場
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【203】B街区の広場
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【204】C街区の広場

コモン

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D街区南端の広場

このループ状道路によって敷地は4つのエリアに分割されており、説明の便宜上、上図のようにA・B・C・D街区と呼ぶことにします(符号の付け方は『奇跡の団地 阿佐ヶ谷住宅』に従った)。このうち、A〜C街区は不定形ながらも長方形に近いまとまった形状をしていて、住棟はカーブに沿って角度を変えつつほぼ平行に並び、A・B街区はその中央に、C街区は北西側に広場が設けられています。一方、D街区はアルファベットの J に似た細長い形状で、住棟がおおむね平行配置されている点は他の街区と同じですが、広場は J 字の南端と中間にやや小規模なものが置かれています。
 
阿佐ヶ谷住宅竣工当時のパンフレットにはこの広場は「児童公園」と記されています。団地内に公園を適宜配置することはごく普通で、阿佐ヶ谷住宅の「児童公園」にも滑り台やブランコといった遊具が設置されているとはいえ、写真を見れば普通の公園とは明らかに別格だと分かるでしょう。阿佐ヶ谷住宅のような広場を建築用語でコモン スペース(以下コモン)といいます。用語事典によると意味は次の通りです。
 

コモン スペース common space 『建築大辞典 第2版』(彰国社)より
集合住宅、特に接地型住宅において、共同で使用する私的共有空間をいう。コモンスペースは不特定の人が使用することを前提とした公共的な空間(パブリックスペース)ではなく、当該居住者の日照やプライバシーの確保、居室から眺められるまとまった緑のスペースとして住環境を保持する空間である。これを利用、共有することによって、居住者が近隣のよい関係を形成するのに役立つものと考えられる。

 
大ざっぱに訳すとコモンとは住民の共有庭です。一般的な賃貸団地の公園やオープンスペースは、住民以外も立ち入りができる公共空間である場合が多い。これに対してコモンはより私的な性格が強く、住民限定のセミパブリックな空間だといえます。公団としては阿佐ヶ谷住宅が最初のコモンではないでしょうか。戦前では、同潤会江戸川アパートメントの中庭がコモンに相当すると思います。基本的に分譲住宅の共有空間がコモンになりますが、賃貸の団地でも部外者が入りにくい閉鎖的な空間であれば成立します 註4 

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「得体の知れない緑地」

後年にコモンが設けられた他の団地と比較しても、阿佐ヶ谷住宅のそれは極めて独特な空間です。再び設計者の言葉を引用すると「個人のものでもない、かといってパブリックな場所でもない、得体の知れない緑地のようなものを、市民たちがどのようなかたちで団地の中に共有することになるのか、それがテーマだったんです」「いわゆる都市計画上の公園とは異なった「市民たちの庭」と考えていたわけです」註5。この「得体の知れない緑地」という表現こそ阿佐ヶ谷住宅の大きな特徴であり、それは広場から住棟の玄関周りまで全ての外部空間に及んでいます。例えば、テラスハウス周辺の小径を歩くとまるで人の家の庭先に踏み込んだかのようです。テラスハウス南側の庭だけは各住戸の専有空間ですが、目の前に向かいのテラスハウスの玄関とアクセス通路があるので、ここも共有感覚が強い。住戸の専用庭・玄関周り~住棟の間・小径~広場へと続く、プライベートからセミパブリック空間に至るグラデーションが実に自然で、かつ、広場も“自分の庭”のような雰囲気が感じられます。

駐車場の問題

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金山団地(福岡市、1968)

ただし、これほど豊かなコモンが実現できたのは駐車場が住棟の近くにないからだ、ということも指摘しておかねばなりません。阿佐ヶ谷住宅の駐車場は敷地南東部に大きなスペースが1ヶ所、あとは数台規模の小さなスペースが3ヶ所ほど点在し、駐車場から住戸までけっこう歩くことになります。しかも、昔はマイカーが普及していなかったので仕方がないのですが、全350戸分の駐車スペースはありません。これは車を持たずに生活できる都内だから許される話です(駐車場不足の意見は出ていた 註6)。住棟間に駐車場を設ける一般的な団地と阿佐ヶ谷住宅と比較する際は、この駐車場の扱いを考慮する必要があります。現に、後年に建設された外部空間を重視した低層団地でも、駐車場を離れた位置に設置した例が見られます。もっとも、コモン/外部空間と駐車場の利便性は必ずしもトレードオフではなく、配置計画次第である程度の両立は可能でしょう。
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公団の設計者と初期の自由な雰囲気

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赤羽台団地(東京都北区、1962)

住棟や道路の配置といった阿佐ヶ谷住宅の全体計画をとりまとめたのは、上述したように公団内部の設計者である津端修一氏です。彼は1925(大正14)年に愛知県で生まれ、1951(昭和26)年に東京大学第一工学部建築学科(丹下研究室所属)を卒業。アントニン レーモンド 註7 と坂倉準三氏 註8 の事務所に勤めた後、1955(昭和30)年の発足と同時に日本住宅公団に入ります。レーモンド事務所ではアメリカ大使館職員住宅(東京都)などを、公団では阿佐ヶ谷住宅の他に牟礼団地、青戸第一団地、多摩平団地、赤羽台団地(以上、東京都)、高根台団地(千葉県船橋市)、高蔵寺ニュータウン(愛知県春日井市)などを担当。そして広島大学などで教授職を歴任した後、フリーの評論家に転じ、現在は高蔵寺ニュータウンに建てた自邸で自給自足の生活を送っています。ちなみに高蔵寺の津端邸はレーモンドの自邸を再現したもの(オリジナルのレーモンド邸は現存しない)。師を尊敬する津端氏の気持ちがうかがえます。
 

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志井サンハイツ(福岡県北九州市、1982)

阿佐ヶ谷住宅の設計・施工時の津端氏はまだ30代前半。その年代で団地を丸ごと任されたのは、津端氏が優れた設計者だからに他なりませんが、発足したばかりの公団には彼以外にも優秀な若手が集まり、自由闊達な雰囲気が形成されていました。そもそも戦後の住宅難の解消を目指して発足した公団としては、一定の戸数を供給しなければならず、阿佐ヶ谷住宅のような低層・低密度の団地が目的に沿うとは言い難い。その一方で良質な住環境を創るという意識も職員は共有しており、阿佐ヶ谷住宅で不足した住戸数は他の団地で調整するといった融通が組織内で通じました。
 
実際、初期の公団は阿佐ヶ谷住宅以外でも2階建ての低層棟を積極的に採用し、低・中層棟が混在する団地や低層棟だけの団地を建設しています。しかし、土地価格が上昇するにつれて採算面から住戸数を増やさざるを得なくなり低層棟は途絶。1970〜80年代に低層集合住宅が再評価されたことがあって、いくつかの優れた低層団地が各地に建設されたものの、後に続きませんでした。

植栽

一方、造園・植栽計画は公団の田畑貞寿(さだとし)氏 註9 が担当しました。建設時に植えられた樹木は15種類程度で約800本 註10 。竣工当初はまだ若木で、住民は「植民地のようだ」と思ったそうですが、これらの成長とともに、住民が個別に植えたり鳥がタネを運んできたりして増えた結果、ちょっとした森のような状態になりました。もともと公団の団地は植栽計画がきちんと考えられており、当初は団地が無味乾燥で周辺地区に緑が多かったのに、宅地開発が進むと逆転し、現在は団地こそ市街地に残る貴重な緑地となったケースは少なくありません。とりわけ阿佐ヶ谷住宅の緑の量と多様性は群を抜いており、2008(平成20)年の調査によると、高さ3m以上の高木だけで少なくとも1092本あることが確認されています 註11 
 
しかし、これほどの緑を維持管理するには相当なコストと労力が必要です。賃貸なら公団(現UR)側が責任を持って管理しますが、分譲である阿佐ヶ谷住宅は住民/管理組合が主体的に行わなければならず、その費用は年間1千万円に達していました 註12 。筆者が訪れた2006(平成18)年当時、建て替え計画が難航していた阿佐ヶ谷住宅は空き家が目立つ状況で、住民が流出した分だけ残った人に負担がかかるせいか、ところどころに管理が行き届いていない部分を見かけました。



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