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阿佐ヶ谷住宅 3/5 )
Asagaya Housing
東京都杉並区、津端修一 + 大高正人 他、1958(昭和33)年、現存せず
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【301】

前川氏の評価における位置付け

2000年代後半以降、団地の再評価やいわゆる“団地萌え”の文脈で阿佐ヶ谷住宅に関心が集まったのは、ランドスケープや緑の豊かさもさることながら、やはり前川テラスの存在が大きかったことは間違いありません。ところが、前川國男氏の評価において阿佐ヶ谷住宅が重視されているとはどうも言い難いのです。実際、前川氏に関する何冊かの書籍に目を通すと、住宅系では前川國男自邸 註13 と晴海高層アパート 註14 の扱いが最も重く、その次が木造プレファブ住宅のプレモス 註15 で、阿佐ヶ谷住宅への言及は少ないことに気付きます。その理由は(1)同時期に竣工した晴海高層アパートの存在があまりにも大きく、その影に隠れて知名度が低かった (2)前川事務所の仕事はテラスハウス単体の設計に過ぎず、阿佐ヶ谷住宅全体を設計したわけではない。その上、他の団地でもあまり採用されなかった (3)低層集合住宅への関心が低い ─ といったところが考えられます。そういう半ば“忘れられた存在”のまま半世紀が経過し、気付いたときは建て替え計画が進行中 ─ 団地や古い建築が好きな人たちの間で阿佐ヶ谷住宅が盛り上がった状況は、同潤会アパートの末期に似ているような気がします。

標準設計のひとつとしての前川テラス

ところで、基本的に前川建築事務所の仕事はテラスハウス単体の設計であって、それを阿佐ヶ谷住宅の敷地にどのように配置するかは公団側の仕事だという点に注意が必要です。もう少し詳しく説明すると、住宅の大量供給が急務だった当時、団地ごとに住棟を設計していたのではとても手が回らないので、公団は住棟に予め決まったプラン(標準設計)註16 を何種類か制定し、それを敷地に配置するという方法を採っていました。標準設計には公団内部で作成したものと、前川テラスのように外部に委託したものがあります。

実際の担当者

なお、前川事務所の仕事なので前川テラスと呼ばれていますが、実際に設計を担当したのは当時同事務所に在籍していた大高正人氏でした(もちろん前川氏が随時チェックしただろう)。大高氏は1923(大正12)年、福島県三春町出身。1949(昭和24)年に東京大学大学院を修了後、前川事務所に勤め、1962(昭和37)年に独立。1960年代にはメタボリズム グループ 註17 の一員としても活動しました。2010(平成22)年に逝去。代表作には基町・長寿園高層アパート坂出人工土地などがあります。このふたつがメタボリズムに基づく大規模集合住宅であるだけに、前川テラスのような小さなものも設計していたとはやや意外な印象です。

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【302】イギリス ロンドンのテラスハウス(ローハウスともいう)
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【303】公団城野団地のテラスハウス、庭側(福岡県北九州市小倉北区)
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【304】同左、玄関側

テラスハウスとは

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三池炭鉱の社宅(福岡県大牟田市)

ここでテラスハウスについて説明しておくと、イギリスで生まれた集合住宅の一形式で、住戸が横方向に連続する(上下には重ならない)ものをいいます。ただ、イギリスのテラスハウスは玄関が道路に面し、庭は裏庭(バックヤード)の扱いに過ぎませんが、日本に導入された際、形態が少し変化しました 註18 。我が国におけるテラスハウスは団地内に並べる住棟の1タイプであり、南側に位置する庭は、物干し場に使われる点では裏庭的であるとともに、住民が庭いじりを楽しむ点では主庭の意味も持っています。階数はほとんど2階建てです(平屋建ての事例もわずかながら存在する)。
 
要するにテラスハウスとはグレードの高い長屋みたいなもので、昔ながらの木造長屋も専用庭が付いていれば定義上はテラスハウスといえなくもありません。もっとも、やはり戦後に出現した補強コンクリートブロック(CB)造や鉄筋コンクリート(RC)造による耐火性の高い建築こそが本来のテラスハウスです。テラスハウスは昭和20年代の公営住宅や住宅協会(現在の住宅供給公社)の団地で初めて建てられ、公団も初期(昭和30年代)には積極的に採用したものの、住戸数が多い中・高層棟が求められるにつれて、住戸数の少ないテラスハウスは減少。低層団地が再評価された1970〜80年代や、建築家が単発的に設計する場合を除き、テラスハウスはほとんど途絶した状況になっています。
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前川テラスの概要

では前川テラスを具体的に見てみます。標準設計としての名称は「東-56-TN-3DK」と「(同)-3K」。これは、東=公団東京支所における、56=1956年度の、T=テラスハウスで、N=玄関が北側にある(北入り)、3DKおよび3Kの間取り、という意味です。外観上は3DKタイプと3Kタイプの違いは分かりません。階数は2階建て。構造は、外壁と住戸の界壁はCB造、臥梁(がりょう=CB造における梁)と屋根はRC造、住戸内部の間仕切り壁や2階の床は木造で造られています。

当時としては珍しい傾斜屋根

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仁川団地(兵庫県宝塚市、1959)

前川テラスの最大の特徴は傾斜屋根であることです。戦後しばらくの間、建築界はフラットルーフこそモダニズムという考え方が根強く、傾斜屋根の建築は皆無ではなかったにせよ、フラットルーフの建築が主流を占める状況が続きました。団地の住棟もフラットルーフばかりで、昭和30年代における傾斜屋根の事例はごく一部のテラスハウスのみ、それとて旧来の長屋の延長線上のようなシンプルな形状にとどまります。故に、傾斜屋根のデザインに積極的に取り組んだ前川テラスは、当時としてはかなりの意欲作なのです。
 
前川テラスの傾斜屋根は、切妻と招き屋根の中間的なデザインになっており、切妻を基本としつつ、片方の軒先を1階レベルまで延ばすことで、玄関側からはあたかも平屋建てに見えています。箱形の集合住宅にまだ馴染みがなかった当時の人々にとって、普通の住宅に近い外観は安心感を抱いたでしょう。また、壁が2階まで立ち上がっていないので、日影の範囲が最小限に抑えられるというメリットもあります。
 
設計を担当した大高氏は、傾斜屋根を採用した理由について、あるインタビューで「なんとなく、当たり前になっちゃったんだね。これは。」 註19 と答えています。この意味は、前川事務所における傾斜屋根の住宅の系譜を阿佐ヶ谷住宅も受け継いだと理解するのが妥当でしょう。阿佐ヶ谷住宅以前に傾斜屋根で設計された住宅建築には、上海の銀行の社宅、前川國男自邸、プレモスがあります。また、前川氏は独立前にコルビュジエとレーモンドの事務所に勤めており、前川氏(事務所)の建築は二人から影響を受けた部分が見られます。阿佐ヶ谷住宅の場合は、玄関・廊下・階段室の吹き抜けはコルビュジエの、傾斜屋根や木造住宅的なスケールはレーモンドの影響を読み取ることが可能です。前述の通り津端氏もレーモンド事務所の出身であり(前川氏と津端氏の所属時期は異なる)、阿佐ヶ谷住宅は弟子を通じて両巨匠の系譜に連なるものと位置付けられます。
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【308】妻側。臥梁部分に2階床がある。切れている部分は吹き抜け。
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【309】ほぼ竣工当時の玄関ドア。両側の窓は替えられている。
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【310】竣工当時の引き違い窓。左の浴室側にはガラリが付いている。

その他の特徴

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老松団地(岡山県倉敷市、1952?)

傾斜屋根以外にもいくつかの特徴がありますが、まず全体的にモダンという筋が通っているといえます。例えば妻側(側面)を見ると、切妻と招き屋根を掛け合わせた斬新な屋根形状に加え、壁面を横切る臥梁(CB造における梁)が立面を引き締めて、バランスの取れたプロポーションにまとまっています。
 
建築材料も注目点です。戦後初期の公営住宅の低層住棟などでは、コストの抑制や技術不足から安価で施工が容易なCB造が多かったのですが、公団は低層住棟もRC造を採用しており、前川テラスのCB造は異例です。前川氏は、プレモスを開発をはじめとして建設工事の合理化・工業化への関心が高かったことから、あえてCB造を採用してその可能性を試したのではないでしょうか。コンクリートブロックという安価な建築材料を用いながらも安っぽい感じに陥らず、目地を活かして抽象的な効果が生じているところに、素材も使いこなす設計者のスキルの高さがうかがえます。
 
その抽象性を引き出しているのが外壁の白であり、それとコントラストをなす屋根の赤との組み合わせもまた、前川テラスを印象深いものにしています。このようなカラーリングは当時としてはかなり大胆。筆者が知る限り、日本でこんな鮮やかな色の集合住宅はほとんど前例がなかったと思います。コルビュジエが ユニテ ダビタシオン(フランス)などで多彩な色を使ったことを、前川氏や大高氏は参考にしたのかもしれません。

北側開口部の少なさ

ただし、疑問点もないわけではなく、北立面(玄関側)の開口部が玄関ドアと引き違い窓1ヶ所だけ(写真310)しかないのが筆者は気になりました。参考文献で平面図を見るとこの引き違い窓内部の中心に浴室のドアが位置し、浴室と廊下で窓を半分ずつ分け合っているようです。しかも、屋根のデザインを優先したことと引き替えに、2階の北側は窓がありません。南立面(庭側)の開口部4ヶ所に対してこれでは、居室は十分な通風ができなかったのではないでしょうか。

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【311】増築部分の側面。1階既存部の窓も後付け。
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【312】統一された増築部分。1棟まとめて増築した?
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【313】増築なし。竣工当時のままの庭側立面。

住民の工夫による住みこなし

前川テラスの少なからぬ住戸が庭に増築をしています。初期の団地は狭かったので住民による増築はよく行われましたが、この行為が黙認されたのは公営や住宅協会(住宅供給公社)の団地が中心で、より管理が厳しい公団住宅では独自の増築はまず認められません。入居後に公団の管理が及ばない分譲住宅だからこそ阿佐ヶ谷住宅は増築が可能でした。厳密には建築基準法違反ですが、もともと低密度の団地内でこの程度の増築をしても弊害はなく、行政も黙認していたと思われます。
 
住民同士で増築に関する自主ルールを制定したおかげで、増築部分の寸法・デザインはほぼ統一されています。また、空き家になった隣接住戸を買い取って界壁にドアを設け、二戸を結合するケース(いわゆる二戸一、ニコイチ)もあったそうです 註20 。このように工夫次第で住環境を改善できるのが分譲テラスハウスの利点である一方、専用庭を持たない中層棟は増築ができないわけで、同じ団地内で不公平が生じてしまいました。このことは、阿佐ヶ谷住宅の再開発を巡り、テラスハウスと中層棟の住民間で意見の違いが生じた原因になっています 註21 

前川テラスのバリエーション

ストリートビューのキャプチャ

鷺宮団地(Googleマップのストリートビューのキャプチャ)

上述したように前川テラスは公団の標準設計のひとつであり、阿佐ヶ谷住宅の他に鷺宮団地(1957・昭和32年)と烏山第一団地(1958・昭和33年) 註22 にも建てられています。筆者はこの2ヶ所は未見。どちらも都内の分譲住宅で、最初に完成した鷺宮団地は前川テラスのみの全20戸、翌年(阿佐ヶ谷住宅と同年)の烏山第一団地は前川テラスと公団テラス合計94戸という、阿佐ヶ谷住宅の350戸に比べると小さな規模です。住棟はおおむね南面平行配置で並んでいます。
 
興味深いことに、前川テラスでも最初の鷺宮型と翌年の阿佐ヶ谷・鷺宮型はデザインが少し異なっていて、鷺宮型には屋根のけらば・軒先が厚い、軒の出が深い、屋根の臥梁が突き出ている、1階の臥梁が切れていない、玄関上部に開口部がある、そのために屋根が一部突き出ている、といった違いがあります。玄関上部の開口部は上述した通風の弱点を補うためでしょう。阿佐ヶ谷・鷺宮型でこの開口部をなくしたり屋根周りを薄くしたのは、外観をよりシンプルかつシャープに見せようとしたものと思われます 註23 。この設計変更は前川事務所の了解を取りつつ公団側で行った 註24 とのこと。したがって、阿佐ヶ谷・鷺宮型は前川事務所のオリジナルとは言い難い面があります。


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