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勝田炭鉱の社宅

概要

勝田炭鉱は、福岡県糟屋郡宇美町にあった糟屋炭田における大手炭鉱である。三菱鉱業の社史によると、1910(明治43)年に清水勝次がこの鉱区を買い取り、自分の名前から字を採って勝田炭鉱と命名。所有者の変遷を経て1937(昭和12)年に三菱鉱業のものとなり、1963(昭和38)年に閉山した。炭鉱の遺構としては、宇美町平和1のガソリンスタンド裏の傾斜地にホッパー等のコンクリート構造物が、そこから少し東の川沿いにボタ運搬線の橋脚が残っている。詳しくは「勝田炭鉱」や「勝田炭鉱引込線・ボタ運搬線」を参照されたい。

さて、炭鉱施設の近くには労働者とその家族が暮らす炭鉱住宅街が形成されるものだが、勝田炭鉱においても周辺の数カ所に炭住街があった。本稿ではその中のひとつ、宇美町桜原の炭住街の2014(平成26)年現在の状況を報告する。

地図を拡大すると分かるように、一般的な住宅街より細かい碁盤状の区画は、炭鉱住宅街が建設された当時のままである。閉山から半世紀が過ぎ、さすがに大半の住宅は建て替わっているものの、炭鉱住宅を改修して住み続けている例や、原型をおおむね維持している例も散見された。炭鉱住宅は1棟あたり4〜5戸が入る平屋建ての木造長屋で、炭住としては標準的な規模と造りである。建設時期は未確認だが、米軍が1948(昭和23)年に撮影した航空写真(リンク1)にはこの炭住街が写っている。

また、昔の炭鉱住宅は風呂はもちろん便所も共同で、長屋の近くに共同便所が置かれていた。後年、風呂・便所の内部化が普及するに伴い共同便所は撤去されるが、桜原の炭住街で現存する共同便所1棟を発見したのは大きな驚きだった。筆者が共同便所の実物を見たのは、福岡県田川市の松原炭鉱住宅(現存せず)とここだけである。

マーカー水色:勝田炭鉱
マーカー青:左からボタ運搬線の橋脚、炭鉱住宅街
青いライン:ボタ運搬線

発見した共同便所は木造瓦葺き、切妻屋根の細長い小屋で、炭鉱住宅の妻側に建っている。くみ取り式で、現在は倉庫というか半ば放置状態のようだ。中央に小便コーナー、その両側に大便ブースが配置されていて、中央と側面に出入口がある(専門的にいうと平入りと妻入り)。現状では男女で空間を分ける間仕切り壁は存在しないが、大便ブースと出入口がふたつあるということは、男女分けを想定していたと考えられる。小便はコンクリートの壁に垂れ流す方式だ(写真の掲載は控える)。大便は和式のいわゆる“ボットン便所”であろうが、ブースの扉を開ける勇気がなくて未確認である。

データ

住所:福岡県糟屋郡宇美町桜原
撮影:2014(平成26)年2月

リンク

  1. 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス勝田炭鉱周辺を表示 > マーカー1 高解像度表示 USA-R236-No2-39(1948・S23)


作成日:2014/4/11、最終更新日:同左

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