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忠隈炭鉱の社宅

概要

忠隈(ただくま)炭鉱は福岡県の旧・穂波町(現・飯塚市)にあった炭鉱で、麻生グループの創業者 麻生太吉が1885(明治18)年に開坑、1894(明治27)年が住友が買収し、筑豊における主力炭鉱のひとつとして発展、1965(昭和40)年に閉山した。忠隈炭鉱の遺構は象徴的なボタ山などいくつかが残っており、そのうち本稿では炭鉱住宅を紹介する。それ以外の遺構は別の記事「忠隈炭鉱」「忠隈炭鉱ボタ運搬線」を参照されたい。

昔の航空写真を見ると、忠隈炭鉱の労働者用住宅(社宅)はボタ山の周辺に数多く並んでいたことが分かるが、今も炭鉱住宅街としてまとまった形で残っているのは、ボタ山東部のエリアである。終戦直後に米軍が撮影した写真にこの炭住街は写っていないことから、戦後の建設ということになる。

住宅は木造平屋建てで、1棟に2戸が入っている。一般に炭鉱住宅は1棟あたり4戸以上の長屋が多く、2戸は比較的珍しい。住戸の表・裏の二面だけでなく妻側(建物の側面)にも開口部があるので、通風・採光面での居住性は高い。住宅は水路の東側に規則正しく並んでいて、閉山から十数年後の写真には水路の西側にも部分的に住宅が建っているが、現在は更地である。

長い年月を経て増改築が施された住宅が多いものの、建設当時の外観を維持した住宅もわずかながら現存し、まちなみからは炭鉱現役時代の雰囲気を感じることができる。また、炭住街とボタ山が一体となった景観が残っている点でも、ここは貴重である。筆者が知る限り、今なおこの組み合わせが見られるのは忠隈の他は志免炭鉱の炭住街(福岡県須恵町)くらいだろう。

一番右のマーカーが忠隈炭鉱の住宅、他のマーカーも忠隈炭鉱関連の遺構。青い線はボタ運搬線。

炭住街の北側には鉄筋コンクリート造2階建ての公営住宅(改良住宅)が3棟建っている。団地名は忠隈泉町住宅、竣工は2006〜08(平成18〜20)年(リンク1)。ここでの改良住宅は老朽化した炭鉱住宅の建て替え事業を意味するが、2009(平成21)年以降から筆者が訪れた2014(平成26)年まで、新たな住棟は建設されていないようだ。

データ

住所:福岡県飯塚市忠隈・南尾
撮影:2014(平成26)年2月

リンク

  1. 飯塚市市営住宅公募可能市営住宅一覧表

参考文献

  1. 『FUKUOKA STYLE』Vol.4 福博綜合印刷


作成日:2014/3/30、最終更新日:同左

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