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長生炭鉱

概要

現在は瀬戸内有数の工業都市として知られる山口県の宇部市だが、そのルーツは炭鉱である。宇部炭田という炭層が広がる同市一帯は、江戸時代には既に手堀りによる採炭が行われており、明治時代後半に近代的な開発が始まると大小多数の炭鉱が林立した。長生(ちょうせい)炭鉱は1914(大正3)年に開坑した小規模な海底炭鉱で、宇部炭田の東端に位置する。遺構としては、海底坑道の入気・排気口だったピーヤと呼ばれる2本のコンクリート製円筒形構造物が海上に建っている他、沿岸部に炭鉱住宅なども残っている。ピーヤの語源は不明。土木用語で橋脚などの太い柱を意味するピア(pier)のことだろうか。

朝鮮半島に近く、下関〜釜山間を結ぶ定期航路があったためだろう、戦前の山口県は朝鮮人労働者が多かった地域のひとつで、宇部の各炭鉱も大正時代から朝鮮人を受け入れており、長生炭鉱は特に多かったという。1942(昭和17)年、海底が陥没して坑内に海水が流入する事故が発生。坑道が水没して長生炭鉱は閉山を余儀なくされる。183人の犠牲者は収容されることなく今も海底に眠っている。そのうち137人(136人とも)が朝鮮人であった。

この長生炭鉱の事故は、1914(大正3)年に東見初(ひがしみぞめ)炭鉱で発生した死者数235人の水没事故に次ぐ宇部炭田では2番目に大きなものだった。しかし、東見初炭鉱の事故が当時の新聞で大きく報道されたのに対し、長生炭鉱の方は戦時統制下のためか報じられなかった。朝鮮人犠牲者の実情が明らかになるのはかなり後である。1982(昭和57)年、現地に慰霊碑が建立されたものの、この碑文が朝鮮人犠牲者のことに触れていなかったため、2013(平成25)年に新たな慰霊碑が建立された。もちろん、日本人も46人が亡くなっていることを忘れてはなるまい。炭鉱夫になった経緯の違いには留意しつつ、全ての犠牲者に哀悼の意を表する。

左:宇部石炭記念館、右:長生炭鉱

データ

住所:山口県宇部市西岐波
竣工:1969(昭和44)年
撮影:2007(平成19)年10月

参考文献

  1. 『宇部の長生炭鉱と戦時中の朝鮮人労働者』李修京・湯野優子、東京学芸大学紀要 人文社会学系 I Vol.5、同大学リポジトリの当該論文ページ

リンク

  1. 気ままに鉱山・炭鉱めぐり長生炭鉱
  2. 日本の鉱山山口県長生炭鉱
  3. 長生炭鉱の“水非常”を歴史に刻む会
  4. 朝鮮新報犠牲者追悼碑が完成・除幕/宇部・長生炭鉱水没事故

作成日:2013/8/3、最終更新日:同左

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