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泉水炭鉱

概要

泉水炭鉱は福岡県鞍手郡鞍手町で操業していた炭鉱だ。以下、『鞍手町誌 中巻』に載っている同炭鉱の記述を要約する。泉水炭鉱の開坑年は不明だが、この周辺は昔は西川村の野田という地名で、1875(明治8)年の『福岡県地理全誌』には西川地区11坑に野田坑と記載されており、かなり早い時期から石炭採掘(この当時はいわゆる狸堀り)が行われていたと思われる。『西川村誌』には、1892(明治25)年に工学博士の長谷川芳之助という人物が泉水炭鉱として鉱区を許可され、その中の小鉱区を1895(明治28)年に藤井信澄という人物が譲り受け新延(にのぶ)炭鉱として経営した旨が記されている。ただし、炭鉱名については、長谷川が許可を受けた時点ではなく、藤井の代に泉水と名付けられたとの説もある。『筑豊炭礦誌』には1897(明治30)年9月時点の調査で泉水炭鉱の名前が載っている。

そして1902(明治35)年に伊藤伝右衛門が泉水炭鉱を買収する(1900・明治33年という説も)。彼は一介の炭鉱夫から筑豊屈指の炭鉱主になった人物で、NHKドラマ『花子とアン』の登場人物 嘉納伝助のモデルでもある。1906(明治39)年、伊藤は排水坑道と新坑道の開削に着手し、1908(明治41)年に完成。旧西川村の文書には、泉水炭鉱について1909(明治42)年12月の調査で「労働者 男150 女30、賃金 日当 男48 女30銭」などと記録されているが、この時点では村内の他の炭鉱に比べると労働者数・賃金水準とも下回っている。1911(明治44)年に本坑を新たに開坑し、翌年に第2坑を開坑。1914(大正3)年、伊藤は大正鉱業を設立して泉水炭鉱も同社の経営となる。

1931(昭和6)年、木戸鉱業所が泉水炭鉱を買収。その後は1936(昭和11)年 九州曹達(ソーダ)西川鉱業所、1943(昭和18)年 森田鉱業所、1949(昭和24)年 志村鉱業所と経営者が次々に替わり、1958(昭和33)年に閉山した。

泉水炭鉱が大きく発展したのは伊藤伝右衛門が経営していた時期で、診療所、託児所、坑夫倶楽部などを備えた炭鉱街ができた。坑外の石炭輸送については、室木線(廃線)の新延駅までエンドレス線を敷設して運んでいた。しかし、施設面では近代化した反面、「一に豊州 二に泉水 三で知ったか高松キナコ」(『増補 水巻町誌』より)という唄が伝わるなど、炭鉱夫を暴力で支配する圧制ヤマの側面もあったようだ(豊州と高松も筑豊の炭鉱。本来これは高松炭鉱の恐ろしさを唄ったもの)。もっとも、戦前・戦中はどの炭鉱も大なり小なりそうした労務管理が行われていた。1943(昭和18)年時点で朝鮮人徴用労働者の宿舎が泉水炭鉱にあったことが、地元の寺の過去帳に記されている。(『鞍手町誌 中巻』の要約はここまで)

閉山後、施設はほぼすべて解体。炭鉱住宅街があったと思われる場所には泉水団地という鉄筋コンクリート造の集合住宅が並び、その裏手を流れる水路の奥にレンガ造の坑口が残っている。泉水炭鉱唯一の遺構で、伊藤伝右衛門が1906(明治39)年に着工したふたつの坑口の一方と思われる。また、鞍手町歴史民俗資料館に、伊藤伝右衛門が1906(明治39)年に着工した坑口の扁額が保存されている(右の写真)。ただ、この扁額が現存する坑口に付いていたのかどうかは、館内に説明がなくはっきりしない。


photo01
明治三拾九年拾壱月廿八日開鑿
(明治三十九年十一月二十八日開削)
泉水炭礦
SENSUi. COALMINE

扁額の日本語は「右から左」表記だがキャプションは「左から右」に改めた。「SENSUi」の「i」のみ何故か小文字で、「COALMINE」との間にピリオドがある。

データ

住所:福岡県鞍手郡鞍手町大字新延字泉水
撮影:2010(平成22)年5月

参考文献

  1. 『鞍手町誌 中巻』鞍手町誌編集委員会、鞍手町
  2. 『北九州・筑豊の近代化遺産100選』筑豊近代遺産研究会・北九州地域史研究会、弦書房

リンク

  1. あれなん泉水炭坑跡
  2. Tsuruhashi mine searcher大正鉱業(株)泉水炭坑同2
  3. 伊藤伝右衛門 ウィキペディア

作成日:2014/8/25、最終更新日:同左

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