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忠隈炭鉱

概要

福岡市からバイパス道路で八木山峠を越えて飯塚市に入ると、三つの峰が連なった小山が見えてくる。「筑豊富士」とも呼ばれる忠隈(ただくま)炭鉱のボタ山だ。炭鉱全盛期は産炭地の至る所に築かれたボタ山も閉山後は多くが切り崩されており、忠隈炭鉱のボタ山はきれいな円錐形を今なお維持する数少ない中のひとつである。

忠隈炭鉱は、麻生グループの創業者で麻生太郎・元首相の曾祖父にあたる麻生太吉によって1885(明治18)年に開坑した。麻生家は、福岡県筑豊地方の炭鉱事業から勃興した「筑豊御三家」のひとつだが、当時はまだ参入したばかりで、忠隈は初期の炭鉱にあたる。しかし、操業していた他の炭鉱の行き詰まりに加え、忠隈炭鉱でも断層に突き当たったことから、1894(明治27)年、太吉は住友に売却する。麻生グループ創業期の屋台骨を支えるヤマだっただけに、これは苦渋の決断だった(リンク1)。一方、買収した住友にとっては忠隈が最初の炭鉱であり、断層を克服して筑豊有数の大手炭鉱に発展させた。閉山は1965(昭和40)年。

忠隈炭鉱に関係する遺構はボタ山をはじめとしてその周辺にいくつか残っている。そのうち本稿では巻上機台座、ボタ山、忠隈炭鉱会館、記念碑を紹介する。いずれも住友時代のものだ。なお、ボタ運搬線の跡炭鉱住宅についてはリンク先の別記事を参照されたい。位置関係は右の地図の通り。

ライン:ボタ運搬線 マーカー青:運搬線の橋梁
マーカー水色:左から巻上機台座、炭鉱会館、ボタ山、炭鉱住宅

photo01

巻上機台座
大正時代
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ボタ山
昭和時代
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忠隈炭鉱会館
1939(昭和14)年
photo04

記念碑
1966(昭和41)年

レンガ造の巻上機台座は『筑豊の近代化遺産』によると大正時代の建設で、「ちくまえ」さんによると第4坑の設備とのことである(リンク2)。アンカーボルトの存在から上部に巻上機(ワイヤーを巻き取る機械)が載っていたと推測される。ボタ山は高さが約113〜141m。1931(昭和6)年頃からボタの積み上げが始まったらしい(前掲書)。草木に覆われた今の姿は自然の山のように見えるが、形が整いすぎていることが逆に不自然だと気付けば、ボタ山だと分かるだろう。

忠隈炭鉱会館は劇場兼体育館として1939(昭和14)年に竣工した。地下1階 地上2階建ての木造建築物で、演劇や映画の興業から従業員の運動まで多目的に使われた他、戦時中は徴用された人々の寮にもなった。閉山後は地元の寺が譲り受け、現在は穂波幼稚園の体育館(遊戯室)に使われている(リンク3)。よって見学・撮影は十分注意していただきたい。本稿の写真は休日に外部から撮影した。

忠隈炭鉱の記念碑は閉山翌年の1966(昭和41)年に建立された。昔は別の場所にあったらしいが、現在は穂波幼稚園の裏の「忠隈山の神公園」内に建っている。名前から分かるように、もともとは炭鉱の守り神である神社があったところだ。右に碑文を記す。「炭坑 / 砿」と漢字が統一されていないが原文のままである。

忠隈炭坑之跡
この地は住友鉱業発祥の地である
即ち明治二十七年麻生太吉氏より鉱区を譲りうけ住友忠隈炭砿を拓いた
これが住友の事業として石炭業界に進出した最初のものである
爾来日に月に進展 操業を重ねること実に七十有余年
住友石炭光隆の礎としてその間能くその使命を全うした
滋に天の命あり閉山するに当り記念の碑を建立して
永く後世にて栄光を伝えんとするものである
 昭和四十一年九月
 住友石炭鉱業株式会社 社長 石松正鐵 誌す

データ

住所:福岡県飯塚市忠隈
撮影:2009(平成21)年1月(巻上機台座)、2014(平成26)年2月(台座以外)

リンク

  1. 麻生グループ麻生百年史10 鯰田から忠隈へ18 忠隈の売却
  2. あれなん住友 忠隈炭坑跡
  3. ほなみ幼稚園園について
  4. 日本の鉱山福岡県の炭鉱探訪マップ住友忠隈炭鉱
  5. 麻生太吉麻生(企業) ウィキペディア

参考文献

『筑豊の近代化遺産』筑豊近代遺産研究会、弦書房

作成日:2014/3/27、最終更新日:同左

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