津屋崎の製塩産業遺構
概要
玄界灘に面する福岡県福津市の津屋崎は、江戸から明治時代にかけて海運と製塩で栄えていた。この地で製塩が始まったのは17世紀で、本格化したのは18世紀中頃といわれている。明治時代には福岡県内で有数の生産量を誇るまでになったものの、1905(明治38)年に塩が専売制になった際の塩田整理政策により津屋崎の製塩は終了せざるを得なくなる。その後、太平洋戦争中の塩不足により再開され、戦後も民間数社が続けていたが、1960(昭和35)年頃にはそれも終わりとなる。このような歴史から、津屋崎には江戸・明治・昭和の各時代における製塩産業遺構が残っている。
また、津屋崎のまちなみについては別ページで紹介している。
江戸時代:勝浦の石組み水路
津屋崎の製塩事業は同地区北部の勝浦に塩田が造られたことから始まる。その塩田に海水を取り入れるため、松林と砂丘の一部を切り開いて通した水路と海水の取り入れ口が、勝浦の海岸に残っている。取り入れ口が砂で埋まらないよう先端をL字型に曲げるといった工夫が見られる。建設時期は近くの記念碑から1826(文政9)年と思われる。塩田自体は水田に変わり残っていない。
マーカー上から石組み水路、旭製塩工場
熊本塩務局塩倉庫
明治時代:熊本塩務局塩倉庫
漁港の片隅にレンガ造の小さな建物が放置状態で残っているが、季節によっては草木で完全に隠れてしまうため、地元でも存在を知らない人がいるようだ。これは塩の専売機関だった塩務局の施設で、塩の保管か鑑定を行っていたとされている。
昭和時代:旭製塩の工場
津屋崎干潟の東側もかつては塩田だった。現在は荒れ地と化した土地の中心に、戦中〜戦後の一時期操業していた製塩工場の煙突や水槽らしきコンクリート構造物が残っている。なお、三井松島産業という企業が、この荒れ地一帯にメガソーラー発電所を建設する計画を2012年6月に発表した。今のところ、製塩工場跡が解体されるかどうかは分からない。
データ
住所:福岡県福津市津屋崎
撮影:2007(平成19)年6月、2008(平成20)年1・4月
リンク
- 西日本新聞 > 【連載】時を超えた宝たち 福岡の近代化遺産<2>塩田跡 「津屋崎は塩でもつ」
- 財団法人塩事業センター > 塩風土記 > 福岡
参考文献
- 『福岡の近代化遺産』九州産業考古学会編、弦書房
作成日:2012/6/30、最終更新日:同左