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スライドショー 22枚

旧山陽ホテル

山陽ホテルは山口県下関市で戦前に営業していたステーションホテルである。本稿で紹介する建築は二代目にあたり、戦後は事務所として使われてきたが、老朽化に伴い2011(平成23)年に解体された。撮影時の用途は事務所なので、記事名は「旧山陽ホテル」とする。

瀬戸内海の本州側を通る山陽本線は、明治時代に私鉄会社の山陽鉄道が建設した路線で、神戸から西に順次延伸していき、1901(明治34)年に下関まで開通した。開通時の駅名は馬関(ばかん)駅といい、翌1902(明治35)年、市名改称に併せて下関駅と改称。さらに同年、山陽鉄道は日本初の鉄道会社が経営するホテルである山陽ホテルを駅前に開業する。ちなみに、東京駅の中に東京ステーションホテルが開業したのは1915(大正4)年のことで、山陽ホテルはそれより13年も早い。なぜ下関に鉄道会社自らホテルを建てたかというと、1905(明治38)年、山陽鉄道傘下の山陽汽船が、日本の統治下だった朝鮮半島の釜山と下関を結ぶ関釜(かんふ)連絡船を就航し、鉄道と船の乗り継ぎ客のために宿泊施設が必要だったからである。なお、1906(明治39)年に山陽鉄道が国有化されたことに伴い、連絡船とホテルも国有化された。

初代の山陽ホテルは木造建築だったが(リンク3)、1922(大正11)年に焼失してしまう。二代目は鉄筋コンクリート造で再建されて1923(大正12)年に竣工、翌年に営業を再開した。駅とホテルの位置関係を2014(平成26)年の状況で説明すると、初期の下関駅は細江町の岸壁付近(高層マンションと立体駐車場の間)に建っていて、この岸壁に関釜連絡船の船着き場があった。山陽ホテルの位置は駅のすぐ北。国道9号線の細江交差点から海に向かう大通りがかつての駅前通りにあたる(下の地図を参照)。戦前の山陽ホテルは、一般の連絡船利用客をはじめ、皇族や政府高官、外国の著名人らも利用する高級ホテルとして大いに賑わった。

1942(昭和17)年、本州と九州の鉄道路線を結ぶ関門トンネルの開通に伴い、山陽本線の市内のルートが切り替わるとともに下関駅が現在の位置に移転する。1945(昭和20)年の戦争末期には戦局の悪化で関釜連絡船が停止。乗り継ぎ客の需要がなくなったことや、建物が戦災を受けたことから、山陽ホテルも終戦の年に営業を終えた。戦後は国鉄・JR西日本が所有する事務所ビルとなり、2006(平成18)年に筆者が訪れたときは建設会社が入っていた。躯体の劣化やタイルの剥離といった老朽化が進んだため、2011(平成23)年に解体(リンク1)。2014(平成26)年現在、跡地は駐車場になっている。


この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したもので、左は1/25,000地形図 1936〜38(昭和11〜13)年を、右はGoogleマップの写真モードを表示している。

二代目の山陽ホテルの設計は辰野葛西建築事務所が手掛けた。辰野金吾は1919(大正8)年に亡くなっており、実質的には共同経営者の葛西萬司(かさい まんじ)の設計とみていいだろう。建物は鉄筋コンクリート(RC)造の地下1階、地上3階建て。ただ、外壁の一部にレンガが露出しているのを筆者は確認している(スライドショー11枚目参照)。これが部分的な使用にとどまるのか、実際はRCとレンガの混構造だったのかは分からない。

建物は1階が矩形で2〜3階は角地に沿ったL字型の形状。ファサードと妻側の外壁はタイル貼。1階にはアーチ型の窓、2~3階には縦長の窓が並び、駅側のコーナー部にふたつのエントランスがあった。2~3階の窓周りやコーニス、エントランスの庇に装飾が見られるが、全体的には控えめである。ただ、メインエントランスの庇は比較的凝っていた。

データ

住所:山口県下関市細江町3-2-7
設計:辰野葛西建築事務所
竣工:1923(大正12)年
撮影:2006(平成18)年10月
備考:現存せず

リンク

  1. 旧山陽ホテル解体決定 JR西 山口新聞
  2. 下関市役所第一別館のページ唐戸マップ旧山陽ホテル松葉一清『やまぐち建築ノート』より「旧山陽ホテル」
  3. The world of HOTEL LABEL ホテルラベル > 日本のホテルと旅館のタグラベル県別インデックス山口下関 山陽ホテル
  4. 下関駅 ウィキペディア 1930(昭和5)年頃の旧下関駅と山陽ホテルの写真あり

作成日:2014/7/25、最終更新日:同左

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