タイトルロゴ


スライドショー 13枚

旧八幡総合授産所

概要

旧八幡市(現在の福岡県北九州市八幡東区・八幡西区)は、戦災復興事業として八幡駅前の区画整理を行い公共建築を建設するなど、戦後早くから意欲的な都市計画を推進した。当時の建築の多くは解体されたものの、村野藤吾が設計した八幡市民会館や八幡図書館、八幡市住宅協会の西本町団地といった建築が残っている。これらに比べると知名度は低いが、八幡総合授産所も当時整備された公共建築のひとつだ。2005(平成17)年に筆者がこの建築を見つけたときは既に閉鎖されていた。

授産所(授産施設)とは「身体障害者や精神障害者、ならびに家庭の事情で就業や技能取得が困難な人物に対し、就労の場や技能取得を手助けする施設」(ウィキペディア)である。制度上、法定授産所と小規模授産所(いわゆる作業所)の2種類があり、旧八幡総合授産所は前者で、母子家庭や生活保護家庭、そして障害者の女性に対し、縫製、手芸、クリーニング作業等の就労の場を提供していた。

八幡総合授産所は西本町6-1の街区をほぼ占めるように建ち、外観上は複数の建築で構成されているかに見える。少なくとも2棟の存在は確かだが(建物は接合、建設時期が異なるという意味、写真01)、3棟以上あるのか、分節したデザインに過ぎないのか分からない。2棟のうち片方は1~2階が授産所、3〜5階が本町団地という市営住宅になっていて、これは北九州市合併後の1966(昭和41)年の竣工だと判明している(詳しくは別記事を参照)。

photo01

【01】
photo02

【02】
photo03

【03】
photo04

【04】

さて、もう一方の部分が本稿の主題である(仮に本館と呼ぶ、写真02)。本館は八幡市が1957(昭和32)年5月1日に発行した『八幡の建設』という冊子に載っており、それ以前に竣工したことは分かるが、正確な竣工年や設計者はいまのところ未確認だ。おそらく昭和20年代末から30年代初期の竣工で、八幡市建築部の設計ではないかと筆者は推測しているが、裏付けは取れていない。

何といっても注目すべきは個性的なファサードだ。中央を高くし、柱型で垂直性を強調したシンメトリーな構成は古典的だが、個々の要素はモダニズムという、不思議なデザインである。第一に、柱割りの関係でファサード中央に柱があったとしても、柱型を隠すか列柱で処理するのが普通であり、これを単独で強調したデザインはかなり珍しいだろう。筆者が思い付く類似例は前川國男自邸や神社の棟持柱くらいだ。コーナーをガラスの曲面で納める手法は戦前・戦後の国内外の建築によく見られるが、これをシンメトリーの構成要素としたのは面白い。

頂部の取っ手状のフレームについては、『八幡の建設』掲載の写真(スライドショー参照)では板材が嵌っているので、看板だった可能性が高い。ただ、この写真では「総合授産所」の名称は別の看板で掲示し、フレームの内側は何も書かれていないように見える点に少々疑問が残る。また、このフレームの背後には旗竿の根元らしきものが残っている(写真04)。『八幡の建設』では上が見切れていて旗の有無が確認できないが、実際に旗が立っていたとすると、求心性が相当強いファサードだ。中央に塔屋を配置した戦前の庁舎建築の影響が残っているのかもしれない。いずれにせよ、授産所という社会福祉施設をこのようなデザインとしたところに、市民のための都市を建設しようという八幡市当局の気概が感じられる。

データ

住所:福岡県北九州市八幡東区西本町1
設計:八幡市建築部か?
竣工:昭和20年代末から30年代初期か?
撮影:2012(平成24)年1月、屋上の写真のみ2005(平成17)年5月

参考文献

『八幡市史 続編』八幡市
『八幡の建設』八幡市

作成日:2012/4/30、最終更新日:2014/1/21 説明文を全面改訂、スライドショーに『八幡の建設』の写真を追加

inserted by FC2 system