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福津市の跨線橋跡(仮称)

概要

鹿児島本線の東福間駅〜福間駅間の切り通しにはレンガ構造物が残っている。3基の構造物のうち、2基は線路の両側で一対になっているので跨線橋のレンガ橋台だと見て分かる。おっちーさんやBlue Fieldさんの調査によると(下記リンク先参照)、鹿児島本線のこの区間が電化された1961(昭和36)年頃、この跨線橋(名称不明)は架線が干渉するために撤去され、近くに新たな跨線橋が架けられたとのことだ。

ところが、残る1基の正体がよく分からない。仮に橋台やアーチ橋の痕跡だとすると、線路の片側しか残っていない状況は不自然に感じる。普通は、上述の一対や教育大前駅の舞鶴跨線橋跡のように両側とも残すはずだからだ。

では、最初から片側しか造られなかったのだろうか。しかし、橋梁は両側から施工するもので、片側ずつ施工することは工法的に考えにくいし、橋梁以外の何かだとするとまったく正体不明である。線路際の壁面をはつっている(削っている)ことについて、おっちーさんは単線から複線への拡幅工事の可能性を指摘されている。だとすると、片側のみの構造物は単線時代の初代跨線橋で、複線化の際に上部と片側を撤去して線路を拡幅して二代目の跨線橋を新設、電化時にこれを撤去して三代目を建設という経緯ではないだろうか。

もうひとつ不自然な点を指摘すると、この跨線橋跡は線路と直交していないのだが、現場を見る限り斜めに交差しなければならない理由が見出せない。そもそも、舞鶴跨線橋のような街道筋でもなく、路線開業時は人家がさほど多くなかったと思われるこの地点に、なぜ跨線橋を必要としたのか(筆者が知らないだけで、昔は重要な道が通っていたのかもしれないが)。また、初代・二代目とも当時の道路橋にしては妙に幅が広い点も気になる。

以上を勘案すると、あくまでも仮説だがこれは鉄道橋として建設されたのかもしれない。もちろん実際には路線はなかったので未成線ということになる。というのも、この近くで宮地岳線(現在の貝塚線)を営業していた博多湾鉄道汽船(西日本鉄道の前身会社のひとつ)は、飯塚方面への延伸計画を立てており、具体的なルートは不明だが、旧宮地岳駅に通じていた旧線を延ばした先にこの跨線橋は位置するのである。路線の線形の制約だとすると、斜めに交差する理由として一応の説明が付く。

もっとも、鹿児島本線のこの区間が開業した1890(明治23)年に対して、博多湾鉄道汽船の前身 博多湾鉄道の設立は1900(明治33)年、宮地岳線が旧宮地岳駅まで延伸開業したのは1925(大正14)年とかなり年数が開いており、そんな昔から跨線橋を先に建設するだろうかとの疑問は残る。

データ

住所:福岡県福津市手光
竣工:初代 1890(明治23)年頃、二代目 1920(大正9)年頃(本文の仮説による推定)
撮影:2007(平成19)年6月

リンク

  1. Web otchee遺構へ行こう煉瓦遺構2 福間・東福間・謎の橋台跡
  2. くうねるあそぶ♪〜NO RUINS,NO LIFE.〜【遺構】福間~東福間の謎のレンガ橋台


作成日:2012/9/16、最終更新日:同左

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