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勝田炭鉱引込線・ボタ運搬線

概要

勝田炭鉱は、福岡県糟屋郡宇美町にあった糟屋炭田における大手炭鉱である。三菱鉱業の社史によると、1910(明治43)年に清水勝次がこの鉱区を買い取り、自分の名前から字を採って勝田炭鉱と命名。所有者の変遷を経て1937(昭和12)年に三菱鉱業のものとなり、1963(昭和38)年に閉山した。炭鉱の遺構は、宇美町平和1のガソリンスタンド裏の傾斜地にホッパー等のコンクリート構造物が、宇美町原田3の県道68号線沿いにレンガ造の橋脚が残っている。詳しくは別記事「勝田炭鉱」を参照されたい。

勝田炭鉱の敷地は上述のふたつの遺構周辺に広がっていたようだが、宇美町平和1にはかつて竪坑櫓が建っていたので、このエリアが同鉱の中心部といっていいだろう(右の地図、水色マーカーの上の方)。傾斜地の上、現在は住宅地の部分に竪坑櫓や選炭施設が、その下、現在はガソリンスタンドや工場、宇美町の公共施設が建っている部分に積み込み施設があった。本稿ではこの中心部に繋がっていた2種類の軌道、引込線とボタ運搬線について述べる。

引込線(地図上の紫のライン)

勝田炭鉱の近くには、勝田線と香椎線というふたつの鉄道が通っていた。どちらも糟屋炭田の石炭輸送が主な役割だった路線で、勝田線は1985(昭和60)年に廃止された一方、香椎線は存続している。勝田炭鉱に近いのは香椎線の方だが、引込線は勝田線から分岐し、香椎線と立体交差(勝田線が下)して積み込み施設に延びていた。トライスターさんの調査(リンク1)や、1948(昭和23)年に米軍が撮影した航空写真(リンク3 マーカー9)によると、宇美川に架かる勝田線跡の歩道橋からガソリンスタンド付近までの川沿いの道路は、引込線の廃線跡とおおむね一致する(写真02)。現在の廃線跡道路と香椎線の踏み切りは、アンダーパスしていた引込線を埋めたものである(写真01)。

マーカー水色:上から勝田炭鉱のコンクリート遺構、レンガ遺構
マーカー青:左からボタ運搬線の橋脚、炭鉱住宅街
ライン紫:引込線、青:ボタ運搬線、赤:勝田線

photo01

【01】
photo02

【02】
photo03

【03】
photo04

【04】

ボタ運搬線(地図上の青のライン)

現在、勝田炭鉱跡地の周辺に3ヶ所の工場団地(地図上のグレーのエリア)があるが、これらは炭鉱のボタ山だったところだ。米軍の航空写真と現在の地図を照合すると、南側の2本のボタ運搬線が道路線形としてある程度残っていることが読み取れる。筆者は完全なトレースはしていないが部分的な痕跡を紹介しておく。まず東側の運搬線について述べると、米軍の写真からおそらく単線のトロッコ軌道だったと思われる。選炭施設を出発した運搬線はカーブを描きながら橋梁で宇美川を越え、築堤上を南東に直進し、その先は炭鉱住宅街のそばを縫うように通っていた。現在の道路が運搬線跡そのものなのか、運搬線と併走していた道路が残っているのかは分からないが、道路線形は当時からあまり変わっていない。唯一確実な遺構は、宇美川沿いに現存する橋梁の橋脚だ(写真03)。

もう一方のボタ運搬線は、選炭施設から引込線をオーバーパスして南に一直線に延びていた。輸送方法は、米軍の1948(昭和23)年の写真(リンク3 マーカー9)では索道だが、1956(昭和31)年(同マーカー8)の時点ではトロッコによるエンドレス線に変わっている。現在の山渋交差点にある宇美川の橋梁(写真04)からしばらく先の道路とエンドレス線とは若干ズレているようだが、工場団地にアプローチする坂道はエンドレス線の築堤を利用したものだろう。

また、2枚の米軍写真を見比べると、1948年に架かっていた運搬線東ルートの橋梁が1956年では撤去されており、遅くともこの時点で東ルートは廃線だったことが分かる。もっとも、1948年の時点でボタ運搬を索道に一本化していた可能性も否定できない。

データ

住所:福岡県糟屋郡宇美町平和1
竣工:未確認
撮影:2010(平成22)年1月、2014(平成26)年2月

リンク

  1. トライスターの炭鉱と廃線と廃墟の放浪日記三菱勝田鉱業所(三菱勝田炭鉱)への引き込み線三菱勝田炭鉱
  2. くうねるあそぶ♪~NO RUINS,NO LIFE. ~宇美町の炭鉱遺構(三菱勝田炭鉱運炭線と観音or日の丸炭鉱?巻き上げ台座)
  3. 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス勝田炭鉱周辺を表示 > マーカー8 高解像度表示 USA-M341-2-255(1956・S31)、マーカー9 高解像度表示 USA-R236-No2-39(1948・S23)


作成日:2014/4/9、最終更新日:同左

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