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城井 体壕群 ( 1/3 )
Joui Bunkers
大分県宇佐市、1943(昭和18)年
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【01】左:No.2、右:1号掩体壕
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【02】1号掩体壕

掩体壕とは

掩体壕(えんたいごう)とは航空機の格納庫の一種で、敵機の攻撃から機体を守るための、いわば戦闘機のシェルターです。屋根のある有蓋(ゆうがい)掩体壕と屋根のない無蓋(むがい)掩体壕の2種類があり、有蓋掩体壕は鉄筋コンクリート造でヴォールト(カマボコ)型やドーム型の形状をしています。
 
太平洋戦争中には各地の旧日本軍の飛行場に掩体壕が建設されました。戦後、役目を失った多くの掩体壕は解体されたものの、現在もいくつかの掩体壕が残っています。自治体が文化財として保存しているものから、民家の倉庫や車庫に使われているものまで、その保存状態は様々です。

10基が現存する一大掩体壕群

城井(じょうい)掩体壕群は大分県宇佐市に現存する掩体壕の一群です。10基もの掩体壕が残っており、戦争遺跡に関心がある人々の間では全国屈指の掩体壕群として知られています。
 
水田地帯だったこの地に宇佐海軍航空隊が設立されたのは1939(昭和14)年のこと。当初は搭乗員を養成する訓練部隊でしたが、戦局の悪化に伴い、大戦末期は特攻隊の出撃基地になります。戦後、飛行場は農地に戻り、今はのどかな田園風景が広がっていますが、点在する掩体壕や滑走路跡の長い直線道路などが戦争の痕跡を伝えています。左の地図は10基の掩体壕の位置をプロットしたものです。

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1号掩体壕
10基のうち、「城井1号掩体壕」と呼ばれる1基は宇佐市の史跡指定を受けて公園に整備されています。駐車場や説明板の他、戦没者を追悼する慰霊碑もあります。見学時間が限られるなら、とりあえずこの1号掩体壕を見ておけば十分でしょう。公的に保存されているだけに状態は良好で、戦闘機の主翼と垂直尾翼が通過できるようデザインされた開口部の形が明確に分かります。内部には大分県国東沖から引き揚げられた零戦のエンジンが置かれ、その位置に合わせて床に零戦の原寸大シルエットが描かれています。

1号掩体壕を除く9基は農家の倉庫などに使われている。残り9基は全て公道や農道から見学できるので、私有地に勝手に立ち入らないよう注意してほしい。1号以外の掲載写真は全て道路から撮影している。なお、1号以外の掩体壕の番号は公表されていないため、本稿では筆者が便宜的に1号から近い順に番号を付けた。公式な番号ではないので注意。そのことを強調するため、2号・3号…ではなくNo.2・No.3…と表記を変えている。


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No.2
1号掩体壕の近くにあるNo.2は耕耘機や農具の倉庫に使われています。10基の掩体壕はバラバラに点在していますが1号とNo.2は比較的近接しています。2基の後ろ姿は動物が寄り添っているようにも感じますね。ところで格納庫がバラバラでは基地として不便ではないかと思いますが、一回の攻撃による全滅を避けるため、あえて不規則に配置したのだそうです。


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No.3
No.3は何かの作業所に隣接して配管が接続していることから、掩体壕も作業所の一部に活用されているようです。機械室でしょうか。


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No.4
実測したわけではありませんがNo.4は前述の3基より若干大きいようです。農家の車庫になっている模様。草木に覆われた掩体壕が水田に浮かぶ光景は実にのどかで、土饅頭のような後ろ姿は格納庫よりも古墳を連想させます。なお、掩体壕は上空から発見されにくいよう最初から覆土しています。平地に不自然な小山があっては敵も人工物だと分かりそうなものですが、発見を遅らせる努力を怠らない点に、命のやりとりをする戦争の本質を感じます。


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No.5
No.5はやや雑然としていて、所有者にはたいへん失礼ながら倉庫というよりガラクタ置場といった印象を受けます。ただ、掩体壕を保存対象物として捉えるならばこの状態は望ましくないかも知れませんが、戦争から数十年が経過した時の流れをこの掩体壕は体現しているという見方もできるでしょう。

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