【02】
天草とキリスト教の歴史
熊本県の西に浮かぶ天草諸島にキリスト教が伝来したのは1566(永禄9)年、領主の招きで宣教師が訪れたことによります。一時は神学校(コレジオ)ができるほど天草ではキリスト教文化が栄えました。
江戸時代初期、領主の圧政に対して島原と天草の民衆らが蜂起した「島原の乱」が鎮圧された後、キリシタン弾圧が厳しくなるとともに日本は鎖国してしまいます。しかし、江戸時代の禁令下であっても、長崎を中心に密かに信仰を続けた人々は少なくありませんでした。
明治になって禁令が解かれると、隠れキリシタンが潜伏していた地域に宣教師が赴任し、やがて教会が建てられます。天草の下島南部の崎津や大江は、そのような歴史を辿った地域のひとつです。
【03】
漁村の中心にある教会
海岸付近に位置する教会は長崎県内にいくつかありますが、教会と漁村にこれほど一体化しているのはあまり例がありません。漁港に教会の尖塔がそびえる光景は日本ではなかなか見られないでしょう。
【04】
キリスト教と他宗教の共存
隠れキリシタンの歴史があるからといって集落の全員がキリスト教徒ではなく、現地案内板によると現在の崎津教会の信者数は約400人とのこと。その他の人々は神道や仏教を信奉しているわけで、集落を見下ろす山の中腹には神社もあります。
崎津教会の祭壇の位置は、江戸時代から明治4年まで毎年踏み絵が行われていた場所だったそうです。そのような歴史を経て、今はこうして異なる宗教が共存しています。
【05】
建築的な特徴
外観で最も特徴的なのが塔屋頂部の尖塔屋根です。鉄川与助 註1 が設計した教会の塔屋はドーム状屋根が多く、尖塔は珍しい。崎津教会の近くの大江地区にこれも鉄川の設計で2年ほど早く竣工した 大江教会の場合、様式はロマネスク風で塔屋の頂部には八角形のドーム屋根が載っています。これが鉄川の教会建築によく見られるデザインなのですが、同じ地域に連続して建てられているのに、崎津教会では突然デザインが大きく変化しています。理由は不明です。
【06】
RC+木造
構造はファサードの半スパンと後方の1スパンまでは鉄筋コンクリート(RC)造、残りの部分は木造という混構造になっています。鉄川は戦前に完全なRC造で3棟の教会を建てており、RC+木造は崎津だけです。予算の問題なのか、塔屋だけは高くしたかったのか、当時の神父の要望なのか、いろいろな理由が考えられますが、詳しいことは分かっていません。
内部空間
内部撮影禁止につき写真は紹介できませんが、床は大江教会と同じく畳敷きで、三廊式のリブヴォールト天井という教会空間と畳との組み合わせが面白い。ただ、信者の高齢化により、現在は畳の上で椅子を使っているとのことです。
名称 | 崎津教会(崎津天主堂とも) Sakitsu Church |
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設計者 | 鉄川与助 TETSUKAWA Yosuke |
所在地 | 熊本県天草市河浦町崎津539 |
用途 | 教会 |
竣工 | 1934(昭和9)年 |
構造 | 構造:鉄筋コンクリート造+木造 |
交通 | 車:九州自動車道 松橋IC > 三角港 > 橋を渡って天草を南下 > 河浦町(約2時間30分) |
備考 | ここは信仰の場です。見学の際は教会や信者の方々の迷惑とならないよう十分な配慮をお願いします。内部撮影禁止。 世界遺産暫定リスト掲載「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産のひとつ。 |
上から大江教会、崎津教会、教会の見えるチャペルの鐘展望公園
補注
- 長崎県を中心に多数の教会を手掛けた建築家。詳しくはこちらの記事を参照のこと。
参考文献
- 『三沢博昭写真集 大いなる遺産 長崎の教会』三沢博昭、智書房
- 『別冊太陽 日本の教会をたずねて』平凡社
- 『九州・沖縄を歩こう! 建築グルメマップ2[九州・沖縄編]』314頁、エクスナレッジ
リンク
- 長崎の教会 > 福岡教区 > 崎津教会
- 長崎県東京事務所 > 大いなる遺産ながさきの教会 > 崎津教会
- あじこじ九州 > 熊本県 > 天草エリア > 崎津天主堂
- 天草宝島観光協会 > 観光情報 > 歴史 > 天草市河浦 崎津天主堂
- コニカミノルタプラザ > KIKIのSense of Wonder > KIKIの探訪記 > Vol.03 熊本県天草編
- @nifty デイリーポータルZ > 世界遺産候補の教会めぐり 〜完結編〜
- おらしょ こころ旅 > 崎津教会堂
- 旅する長崎学 > 教会巡礼のマナー
- 鉄川与助 ウィキペディア
公開日:2002年12月31日、最終更新日:2011年7月16日、撮影時期:2002年11月
カメラ:Nikon COOLPIX775(Photoshopで修正)