【02】
建設の経緯
中町教会は、長崎駅から徒歩数分という市街地にあるカトリックの教会です。長崎はキリスト教が禁止されていた江戸時代にも密かに信仰を続けた信者(隠れキリシタン)が多かった地域で、禁教令が解かれた明治時代以降、県内各地に教会が建設されました。中町教会もそのひとつで、同教会の創立者である島内要助神父が建設を発起し、キリシタン大名 大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡に敷地を得て、1891(明治24)年に着工、1896(明治29)年に竣工しました。 註1・2
設計はフランスのパピノー神父。また、建設資金としてフランス人女性が当時の金額で8万フランも寄付するなど、教会建設にあたってはフランスを中心に多大な援助がなされました。
竣工当時の姿
中町教会はレンガ造の1階建て、一部2階建て(塔屋は除く)。ただ、天井/屋根が高い分、普通の住宅の2〜3階に相当する高さがあります。また、白く塗装された現状とは異なり、当初の外壁はレンガ素地のままだったようで、長崎大学のアーカイブに掲載されている竣工当時の写真 リ1 を見ると、低い屋根が連なる長崎の街並みに赤レンガの大きな教会が聳えている様子が分かります。
文中の「註」は補註を、「参」と「リ」は参考・根拠となる参考文献やリンクを意味する。
【03】
【04】
【05】
原爆による崩壊と再建
1945(昭和20)年8月9日、長崎市に原爆が投下され、爆風と火災で中町教会も大きな被害を受けました。被災後の写真 リ3 を見ると、おそらく木造だったであろう身廊の屋根や内部は焼け落ち、レンガ造の外壁の下半分と塔屋だけが残っています。その後、残存部分を活用して再建工事が行われ、1951(昭和26)年に現在の姿が完成しました。このように中町教会は被爆建物でもあるのですが、きれいに再建された姿からその歴史を読み取るのは困難です。もし、崩壊した状態で保存されていれば、原爆ドームに匹敵する存在になったかもしれません。これは長崎を代表する教会で、被爆後、残存部分を撤去して新たに再建された浦上教会 註3 についてもいわれていることです。ただ、教会側としては、信仰の拠り所である教会を同じ場所に再建することが最重要であり、廃墟のまま保存するという選択肢は難しいのが現実でした。
被爆後と現在の外観の比較から判断すると、外壁の上半分と屋根、および内部空間は戦後の再建と思われますが、外部・内部とも一様に白く仕上げられているため(しっくい+吹き付け?)、新旧部分の見分けは付きません。なお、明治の竣工時はレンガのままだったと前述しましたが、白く塗られたのが戦後初めてのことだったかどうかはハッキリしません。被災後の写真の中には、既にしっくいが塗られていたように見えるものもあり、明治から昭和戦前期のいずれかの時点でしっくい仕上げがなされた可能性があります。また、ファサード(正面)両側の小尖塔(写真03)は竣工時の写真に写っていないことから、再建時に新たに加えられたものと見られます。
【06】
【07】
【08】
内部空間
内部は、身廊の壁面に柱型が出ていて、その上にやや扁平したアーチが架かってヴォールト天井を構成しているように見えますが、これが実際の構造と合致しているかどうかは定かではありません。柱については、内側に鉄骨を建てたという記述 参1 があり、おそらくH形か角形の柱に何かを張って円柱に仕上げているのだと思います。一方、天井については、戦後の混乱期にこれほど大きなスパンのアーチを架けることができたかどうか、疑問が残ります。長崎の初期教会建築ではリブ ヴォールト天井を木造で再現した事例が多いので、推測ですが、中町教会の場合も構造を負担しない純粋な意匠(要するにハリボテ)かもしれません。註4
建物名 | 中町教会 Nakamachi Church |
---|---|
設計者 | パピノー神父(フルネームは未確認) Papineau |
所在地 | 長崎県長崎市中町1-13 |
用途 | 教会(宗派はカトリック) |
竣工 | 竣工 1896(明治29)年、再建 1951(昭和26)年 |
構造・規模 | 構造:レンガ造、面積:未確認 |
交通 | 鉄道:JR長崎駅下車 徒歩6分 |
備考 | ここは信仰の場です。見学の際は教会や信者の方々の迷惑とならないよう十分な配慮をお願いします。現地で注意事項を確認の上、その指示に従ってください。 |
上から中町教会、大黒市場と恵比須市場(現存せず)、親和銀行大波止支店
補註
- ネットには竣工(完成)年ではなく「1897(明治30)年に献堂式が行われた」という旨の記述が多い。献堂式とは、教会建築が完成した後、その教会を神に捧げるための儀式のことだが、竣工年と献堂年は必ずしも一致するとは限らない。『日本近代建築総覧』(日本建築学会)には「建築年 M29.9.8」と書かれており、本稿はこれに従った。なお、献堂式をもって教会の完成とみなす考え方も間違いではない。
- 竣工時の名称は西中町天主堂。
- 初代の浦上教会は1914(大正3)年に献堂。場所は長崎市本尾町。双塔が聳えるその威容は「東洋一の大聖堂」と呼ばれた。被爆後、廃墟の保存を要望する意見もあったが、同じ場所に鉄筋コンクリート造で1959(昭和34)年に新たに再建された。残骸の一部は市内の平和公園の「原爆落下中心地地区・祈りのゾーン」に移築保存されている。
- 教会の方に確認したかったのだが、忙しそうだったので聞き取りはしていない。
参考文献
- 『原爆遺構 長崎の記憶』長崎の原爆遺構を記録する会、海鳥社
リンク
公開日:2015年8月9日、最終更新日:2015年8月9日、撮影時期:2009年12月
カメラ:Nikon D50(Photoshopで修正)