方城炭鉱
概要
方城炭鉱は福岡県の方城町(現・福智町)で三菱が操業していた炭鉱だ。三菱合資会社(当時)が1902(明治35)年に開坑し、1908(明治41)年に第2坑、1910(明治43)年に第1坑が竣工。2基の竪坑櫓が聳える筑豊屈指の有力炭鉱であった。しかし、戦後の石炭産業の斜陽化には抗えず、1962(昭和37)年に三菱鉱業としては閉山。いわゆる第2会社にて存続を図ったものの、1964(昭和39)年に完全に閉山した。
方城炭鉱は国内最悪の炭鉱事故「方城大非常」で有名である。炭鉱の世界では事故のことを日常に対して非常と呼んでおり、大非常とは大事故・大災害を意味する。1914(大正3)年12月15日9時40分、坑内で大爆発が発生し、轟音と衝撃が付近一帯に広がった。当時はまだ酸素マスクがないため救出作業は困難を極め、坑内の労働者は爆発の衝撃や一酸化炭素(CO)中毒でほとんど死亡した。殉職者は公式発表によると671人だが、納屋制度という間接的な雇用形態では入坑者の正確な数は把握できず、実際は千人を超えるともいわれている。
爆発の原因について、1915(大正4)年に三菱がまとめた調査報告書には「原因不明」と記載され、長らく不明のままだった。ところが、監督官庁である福岡鉱務署の目黒技師が原因を究明したレポートをイギリスの鉱業雑誌に発表していたこと、さらに同じ内容の調査報告書が作成されていたことが、ずっと後になって判明した。両書によると、坑内の通気戸を開け放したためにメタンガスや炭塵(たんじん)が溜まり、そこに炭鉱夫の安全灯が着火して大爆発が起きたとのことである。しかし、なぜこのレポートが公にされなかったのかは分からない。
閉山後の跡地には九州日立マクセルの工場が進出し、理美容系の家電品や健康機器、メディカル ケア製品などを製造している。炭鉱を象徴する竪坑櫓は解体されたものの、敷地内には炭鉱関連のレンガ造建築物がいくつか残っていて、工場に申し込めば見学可能である。筆者が訪問した2011年2月の時点では下記の4棟が現存。ただし、Googleマップで確認すると機械工作室は解体されたようだ。
坑務工作室
圧気室
繰込浴場
機械工作室(現存せず)
坑務工作室は当初は坑内に送風する送風機室で、塔屋にその機能を読み取ることができる。現在は赤煉瓦記念館として1階は九州日立マクセルのショールームに、2階は商談室に活用されている。内部はかなり改装されているが、小屋組の鉄骨は当時のまま。この建築のみ登録有形文化財の指定を受けている。他の3棟はいずれも倉庫に活用。繰込浴場はレンガ壁と構造的に分離した形で鉄骨造の柱と屋根を設けている。また、方城炭鉱で掘り出された巨大な石炭の塊が敷地内に保存されている。
この他の遺構としては、正門付近の敷地外に炭鉱事務所が、道路境界にレンガ塀が、近隣に炭鉱住宅街が近年まで残っていたが、筆者が訪れる数年前に解体された。炭住街を建て替えた公営住宅は長屋形式を採用しており、かつての炭住街の雰囲気が何となく感じられる。敷地に続く坂道は「百円坂」と呼ばれ、正社員で高給取りだった炭鉱職員の住宅が並んでいた。筆者は職員社宅らしき廃屋を見つけたが、今も残っているだろうか。百円坂の下にあるバス停は「職員区集会所」で、昔は「方城購売」という名前だった。公営住宅と職員社宅は筆者のブログで紹介している(下記リンク先参照)。敷地西側の川沿いには、伊田線金田駅から延びていた引き込み線のレンガ造橋台が残っている(詳細記事)。
データ
住所:福岡県田川郡福智町伊方4680
竣工:1904(明治37)年頃
撮影:2011(平成23)年2月
リンク
- あれなん > 三菱鉱業 筑豊鉱業所 方城炭鉱跡
- 日本の鉱山 > 福岡県の炭鉱探訪マップ > 三菱方城炭坑
- Web地図の資料館 > アンティーク絵葉書・写真にみる懐かしの風景・町並み > 方城炭坑
- 九州工業大学情報工学部 筑豊歴史写真ギャラリー > ファイル番号567 三菱方城炭坑
- 九州大学総合研究博物館デジタルアーカイブ > ギャラリー > 東アジアの炭鉱写真 > 筑豊の炭鉱 > 三菱鉱業株式会社筑豊砿業所方城炭坑
- 聖光山 壽得院 福圓寺 > 方城炭鉱慰霊供養
- へいちくブログ > 12月15日に「方城すいとんふるまい会」を開催します!
- 方城炭鉱 ウィキペディア
- ALL-A blog > 東区団地、方城炭鉱 職員社宅
参考文献
- 『広報ふくち』2007年12月号、「方城大非常」の詳細な記事が載っており必読。PDFを開く
- 『筑豊の近代化遺産』筑豊近代遺産研究会、弦書房
作成日:2013/12/15、最終更新日:2013/12/21