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飯塚炭鉱 ( 3/5 )
Iizuka Coal Mine
福岡県飯塚市、 大正〜昭和時代

炭鉱跡地は工業団地に

飯塚炭鉱の閉山後、跡地には炭鉱離職者の就職対策として飯塚工業団地が建設されました。1972(昭和47)年に整地が終了し、1974(昭和49)年の企業数は7社。その後、少し情報が古いのですが1998(平成10)年時点で127社に増えています。 文2
 
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忠隈炭鉱のボタ山

飯塚工業団地の北側にある山は自然のものでなく、忠隈炭鉱のボタ山です。採掘直後の石炭(原炭)から選炭作業によって取り除かれた石などの不純物を西日本ではボタ、これを積み上げたものをボタ山と呼びます(東日本ではズリ、ズリ山)。
 
かつて産炭地中で見られたボタ山はその多くが切り崩され、完全な形で残っているのは忠隈炭鉱のボタ山などごくわずかになりました。これのすぐ南に飯塚炭鉱のボタ山もありましたが残っていません(工業団地の造成に使った?)。 リ9・10
 
この工業団地を造成したため、巻上機台座以外の飯塚炭鉱の施設はほとんど解体されました。3ページではわずかに残る飯塚炭鉱の痕跡を紹介します。位置関係は右の通りです(1ページの地図を再掲)。
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【地図02】各遺構の位置(Googleマップのキャプチャに付記)
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【301】
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【302】
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【303】

本卸の支柱

本卸台座の東数十mの地点に鉄筋コンクリート造の構造物があります(写真301・302)。これは本卸のワイヤーケーブルの支柱です。ただし、飯塚炭鉱の復元図(2ページの写真203)に描かれた支柱とこの実物は形がかなり異なっています。実物の支柱が写った古写真は残っている一方 リ1 、復元図が何の史料を根拠にしたのかは分かりません。

松岩(珪化木)の擁壁

本卸台座の足下や周辺の住宅の石積み擁壁をよく見ると、妙に黒っぽい石だと感じるでしょう(写真303)。これは古代の樹木が石炭になり損なった状態で化石化したもの。学術的には珪化木(けいかぼく)、炭鉱業界では松岩(まついわ)といい、間近で観察すると木の年輪や組織まで分かります。先述のボタはおおむねこの松岩で、産炭地では擁壁の資材によく使われていました。

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【306】

上山田線

石炭を炭鉱から運び出す主な手段は鉄道です。かつての筑豊地方は鉄道路線が網の目のように張り巡らされていましたが、炭鉱が軒並み閉山してその需要が途絶えると、石炭輸送が中心だっただけに旅客輸送は採算が合わず、多くの路線が廃止となります。飯塚炭鉱の場合は上山田線が輸送を担っていて、飯塚炭鉱や沿線の炭鉱が閉山した後もしばらく営業を継続したものの、国鉄分割民営化後の1988(昭和63)年に廃止されました。巻上機台座の西側の道路は上山田線の廃線跡です(写真304)リ11・12 。飯塚炭鉱の復元図(写真203)で台座の手前に描かれた鉄道が上山田線。デフォルメ的な描写なので3両の貨車しかありませんが、実際は蒸気機関車が牽引していましたし、貨車は何十両も連なっていました。

エンドレス線

ところで、巻上機台座のすぐ横を上山田線が通っていたとはいえ、この場所で石炭を貨車に積んでいたわけではありません。第二坑をはじめ飯塚炭鉱の各坑口から出た石炭は、上山田線 平恒駅付近の積み込み施設に集められ、そこで貨車に積まれていました。
 
さて、坑口から積み込み施設までの輸送手段として導入されたいくつかの方法のうち、最もよく使われたのはエンドレス線というシステムです。これは広義の鉄道の一種ですが、普通の鉄道は機関車が貨車を牽引するのに対して、エンドレス線ではレールの間に通したワイヤーケーブルに貨車をつなぎ、このケーブルを動かすことで貨車を動かします。要するに平坦な場所を動くケーブルカーです。軌道の末端に滑車を置いてケーブルを循環させる点がエンドレス線の特徴で(従って複線になる)、ケーブルに終わりがないことからエンドレスと呼ばれました。

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エンドレス線を簡略化した展示(田川市石炭・歴史博物館)
左:炭車(石炭を運ぶ貨車)の下、レールの間にワイヤーケーブルが通っている。炭車はケーブルとの接続/切り離しが自由にでき、写真にあるようなポイント等でエンドレス線と合流/離脱する。
右:端部の滑車。もう一方の末端に巻上機を設置してケーブルを循環させた。

鉱区内の坑口群と積み込み施設は何本ものエンドレス線で結ばれていましたが、工業団地の造成に伴いその痕跡はほとんど消滅。ただ、第二坑から積み込み施設付近までのエンドレス線は道路として残っています。昭和11年の構内配置図 文2 を元に、第二坑に繋がるエンドレス線を描いたのが地図02の水色のラインで、南端に第二坑が、北端に第一坑がありました。エンドレス線と道路が一致するのは第二坑の台座前(写真207・212)から橋梁跡(写真305・306)付近まで。そこから第一坑までの痕跡は消えており、図面を見ながら筆者の推測で記入しています。橋梁跡とはエンドレス線と道路の立体交差部に架かっていた跨道橋で(エンドレス線が上)、橋桁は撤去されて橋台と築堤だけが残っています。地味な遺構ですが、廃線跡が好きなら一見の価値はあるかと思います。リ1・4

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【307】
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【308】
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【309】

積み込み施設

積み込み施設は、エンドレス線で運んできた石炭を一時貯蔵し、引き込み線上の専用貨車(石炭車)に積載する作業を行う施設です。地図02ではエンドレス線と積み込み施設が離れているように見えますが、実際はこの間に施設の構造物や上山田線平恒駅からの引き込み線がありました。石炭を満載した貨物列車は上山田線と筑豊本線を通って石炭積出港がある若松駅(北九州市)へ輸送。筑豊の石炭の多くは若松港に集積され、そこで船に積み替えられて各地の臨海部の工場などに運ばれたのです。
 
飯塚炭鉱の積み込み施設はほとんど解体され、地図にプロットした場所付近にコンクリート造の遺構が少しだけ残っています。写真307の遺構はプロパンガス充填工場の敷地内で、フェンス越しに外観の見学は可能。上山田線跡の道路沿いの遺構(写真308)の方は、季節によっては草木に隠れて見えにくいかもしれません。リ1・3・4

養和館(中島別邸)

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『三菱飯塚炭坑史』より、1937(昭和12)年頃

第二坑西側のやや離れた場所にレンガ塀で囲まれた空き地(写真309)があります。ここは中島徳松が1921(大正10)年に建てた別邸(右の写真)の跡です。敷地面積4,620m2(1,400坪)、延床面積690.73m2(209坪)、和風建築に応接間として洋館を併設した大邸宅で、しかもこれが別邸というのですから、当時の炭鉱主の裕福さがうかがえます。中島別邸は、三菱鉱業時代は養和館という名前で迎賓館に使われ、閉山後は三菱系の機械メーカーが中野倶楽部という名前で宿泊・接待用に使っていましたが、1998(平成10)年に閉鎖、その後解体されました。筆者も邸宅の実物は見ていません。 文2、リ3・4

神社跡地の石碑と事故の歴史

最後に、飯塚炭鉱の慰霊碑とその背景にある事故の歴史などについて触れておきます。実をいうと筆者は見落としているのですが、飯塚工業団地北東部の平恒山の神公園(平恒野間公園とも)に、飯塚炭鉱の慰霊碑と記念碑が建っています。もともとこの公園は炭鉱の守り神である大山祇神などを祀る神社があったところで、神社はそれまで坑口ごとに祀っていた山神社を1ヶ所に合祀する形で1933(昭和8)年に設置されたものの、閉山後は廃止されて社殿は解体、跡地は公園となって石碑だけが残っている状態です。慰霊碑は神社を合祀した年に建立、記念碑は閉山時のもので、それぞれ「弔魂碑」「三菱飯塚炭鉱跡」と刻まれています。リ5・9
 
現代でも建設業や製造業といった職場では神棚や祠を祀って安全を祈願したりしますが、危険と隣り合わせだった炭鉱業界は特に信仰が篤く、炭鉱の近くには必ず神社が建てられて、炭鉱夫は熱心に参拝しました。しかしながら炭鉱事故はたびたび発生し、飯塚炭鉱においては1941〜44(昭和16〜19)年に重大事故が相次いで起きています。戦争に伴う増産体制や非熟練労働者の無理な就労によって、安全対策が後手に回ったのではないかとの疑問が拭えません。そういう「負の歴史」も忘れないようにしたいものです。文2・3、リ13

 1933・昭8  山神社の合祀、殉職者慰霊碑除幕式
 1937・昭12  日中戦争はじまる
 1938・昭13  応召(兵役)のため従業員の募集が次第に困難になる
 1939・昭14  朝鮮人労務者の集団受け入れ(96名)
 1941・昭16  太平洋戦争はじまる

 勤労報国隊が派遣される

 第二坑卸で落盤事故発生(死傷者13名)
 1943・昭18  全山無休操業に入る

 第二坑人車卸で落盤事故発生(死者6名)
 1944・昭19  学徒動員により中学生が派遣される

 第二坑でガス燃焼事故発生(死傷者13名)

 新坑右第一卸でガス突出爆発事故発生(死傷者51名、鉱山監督局技師や警官など3名も死亡)

 中国人労務者が配置される(189名)
 1945・昭20  戦争終結
日中戦争・太平洋戦争期の飯塚炭鉱の歴史
『穂波町ものがたり《炭鉱編》』の年表等を元に作成。「第二坑卸」は2ページで述べた本卸、「第二坑人車卸」は連卸を指すと思われる。

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