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飯塚炭鉱 ( 2/5 )
Iizuka Coal Mine
福岡県飯塚市、大正〜昭和時代
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【201】左が本卸、右が連卸の巻上機台座。道路は上山田線の廃線跡。
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【202】田川炭鉱伊田坑 竪坑櫓
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【203】飯塚炭鉱の復元図(現地説明板)
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【204】三池炭鉱宮原坑 巻上機

巻上機台座とは

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竪坑(左)と斜坑(右)の模式図。三池炭鉱宮浦坑(大牟田市)の説明板より。

他の産炭地に比べてシンボル性の高い遺構があまり残っていない筑豊地方にとって、飯塚炭鉱の巻上機台座は、 田川炭鉱伊田坑の竪坑櫓(写真202)や煙突と並んで貴重な存在です。巻上機台座は旧産炭地の至る所に残っていますが、私有地の藪の中に埋もれているなど大半は見学が難しく、飯塚炭鉱のように公道から見える場所にこれほど大きな台座が現存する事例は、ごくわずかしかありません。
 
さて、巻上機台座とは何かを説明するには、炭鉱の竪坑と斜坑の違いから話を始めなければなりません。地下に埋まっている石炭を採掘するには、長いトンネル(坑道)とその出入口(坑口)が必要であり、坑口(正確には地上と地下をむすぶ連絡坑道)が垂直なものを竪坑、斜めのものを斜坑といいます(右図参照)。竪坑の場合、石炭や人員は鋼製のカゴ(ケージ)で輸送し、これを吊すため竪坑の真上に櫓を建設します。端的にいえば巨大なエレベーターです。
 
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志免炭鉱の斜坑口

一方、斜坑の場合は石炭や人員を載せた車両(いわゆるトロッコ列車)がレールの上を移動しますが、急勾配なので機関車では牽引できないため、地上の巻上機と列車をワイヤーケーブルで繋いで引っ張ります。こちらは要するにケーブルカーと同じ仕組みであり、その巻上機を設置する構造物が巻上機台座というわけです。従って、台座の上には巻上機とそれを覆う建屋が設置されていましたが、現在は残っていません。写真203は飯塚炭鉱の現役時代を描いた復元図、写真204は 三池炭鉱宮原坑(大牟田市)に現存する巻上機です。
 
炭鉱が閉山すると坑口は閉鎖しなければならず、その方法はコンクリートや鉄格子で塞ぐだけでも構わないのですが、坑口先端部を解体して埋め戻すケースも少なくありません。飯塚炭鉱も台座の東側(写真101の住宅地)に存在したであろう斜坑口は埋め戻されています。 志免炭鉱(志免町)で2008(平成20)年に斜坑口が発掘されたように、飯塚炭鉱も付近を発掘すれば坑口が出てくるかもしれません。

三菱鉱業による坑口の合理化

ところで、何々炭鉱と呼ばれるひとつの炭鉱において、その坑口は一ヶ所だけとは限りません。炭鉱事業者にはある一定地域(鉱区)の採掘権が与えられていて、鉱区内のあちこちに坑口を設けて何本もの坑道を地下に延ばすのが一般的な炭鉱の形態です。前ページで述べたように、中島鉱業時代の飯塚炭鉱は最盛期に11ヶ所、短期間で廃止されたものを含めるとさらに多くの坑口が存在していました。1929(昭和4)年に経営権を掌握した三菱鉱業は坑口の合理化を行い(このとき7ヶ所)、1931(昭和6)年に2ヶ所まで集約します(その後、数は増える)。

台座は第二坑、建設時期は不明

現存する2基の巻上機台座は第二坑と呼ばれた坑口の設備で、この遺構をより正確な名称で表記すると「飯塚炭鉱第二坑巻上機台座」になります。建設時期については、大正時代や1931(昭和6)年頃といった説があって正確な竣工年は不明。また、(埋められた)坑口自体は中島が経営者に就く前の大徳炭鉱時代から存在しており、現状とは形が異なる台座が写った古写真 リ8 が残っているので、現存する台座は初期の台座の建て替えであることは確かでしょう。各資料の記述を総合的に判断すると、三菱に経営委託された1922(大正11)年以降の建設である可能性が高そうです。資料 文3 によると、台座の近辺には選炭機(石炭と不純物を選別する施設)や汽罐場(ボイラー施設)などがありましたが、それらは残っていません。

台座が2基(坑口がふたつ)並んでいる理由

炭鉱夫が坑道の奥深くまで入って作業をするには、坑内を換気する、つまり空気を入れ換える必要があるため、炭鉱では入気用(外部の空気を入れる)と排気用(坑内の空気を出す)として少なくともふたつの坑口が設置されます。本文の「坑口」が、「坑道の出入口そのもの」と「入気坑・排気坑および関連施設一式」の二重に使われているので分かりにくいかと思いますが、整理すると、鉱区内には第一坑・第二坑~などと呼ばれる坑口・設備一式の場所が点在し、それぞれにふたつ以上の坑口(出入口)が存在するというわけです。また、炭鉱用語では入気坑を本卸(ほんおろし)、排気坑を連卸(つれおろし)ともいいます。現存する第二坑の坑口と台座については、北側の方が入気坑/本卸で石炭運搬に、南側が排気坑/連卸で人員の運搬に使われていました。

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【207】

本卸巻上機台座

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本卸巻上機台座 立面図(現地説明板より)

台座は巻上機の基礎という機能的にはシンプルな構造物に過ぎませんが、飯塚炭鉱の2基の台座はデザインが異なっています。巻上機の寸法・重量の違いによるのか、別の機能的な理由があるのか、それとも単純に意匠を変えたかったのか、その理由は不明です。ともかく、まずは本卸側の巻上機台座(写真205〜210)を詳しく見てみましょう。これは12本の柱を持つ台形構造物で、寸法は底面が13.45 × 8.75、上面は11.45 × 6.35、高さは12.00(単位m)。筆者が知る範囲ではこれより大きな巻上機台座が福岡県と長崎県に1基ずつ残っていますが 註6 、それでも同種の構造物としてはかなり大きなものといえます。
 
上部の壁面にある突起物や穴の用途は分かりません。復元図(写真203)によると、少なくとも通常時は特に使われていないようなので、おそらく上屋の建設や補修工事の際に足場を構築するためのものかと推測します。また、これも復元図には描かれていませんが、巻上機の操作員が上り下りする階段かハシゴがどこかに付いていたはずで、その痕跡の可能性もあります。
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【210】

台座はコンクリート造

台座はレンガ造のように見えますが、内側の上面はコンクリートで型枠の跡もはっきり残っていることから(写真209)、実際の構造はコンクリート造であり、レンガは表面を覆っているに過ぎないことが分かります。ネット上に台座をレンガ造とする記述が散見される他、現地説明板や近代化遺産関係の書籍にもレンガ造と書かれていたりするので、誤解しないように注意してください。

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【213】

連卸巻上機台座

続いて連卸側の巻上機台座(写真208~213)ですが、こちらは6本の柱を持つ台形構造物で、寸法は底面が10.75 × 7.35、上面は9.15 × 5.75、高さは8.60(単位m)と、本卸台座よりやや小規模です。また、本卸は柱の間がアーチ状であるのに対して、連卸は水平でハンチ(斜めの部分)が付いている、下部にも梁が存在するといった違いが認められます。こちらもレンガで覆われているものの、内側の上面(写真213)や下部の梁(写真214)はコンクリート打放しである上、柱の間がアーチではないという点から、構造はコンクリート造だと判断できます。

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【214】
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【215】
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【216】

鉄筋か無筋か

ところで、上述の説明で単に「コンクリート造」と記して「鉄筋」を付けなかった点に疑問を感じた方もいるかと思いますが、正直なところ、台座が鉄筋コンクリート(RC)造か無筋かの判断は難しいのです。まず、連卸台座下部の梁はコンクリートが一部剥離して鉄筋が露出しているので(写真214)、この梁はRC造で間違いありません。連卸台座上部のスラブ(床版)裏面がフラットであることやハンチ 註7 と片持ち突起物も、RC造の可能性を示しています。
 
一方、連卸台座の柱と梁が部分的に撤去された箇所(写真215)に注目すると、柱の欠損部分には鉄筋が2本しか認められず(写真216)、しかもこれは撤去された梁の下端筋であって、公道から望遠レンズで観察する限り、柱の主筋は確認できません。本卸台座の柱の多さとスパン(柱間距離)の短さ、アーチについても、無筋コンクリート造と仮定すれば説明が付きます。ただ、大正時代の日本は既にRC造の技術を持っていた上、本卸台座の近くにスレンダーなRC造の遺構(後述)が現存することから、2基の台座を鉄筋と無筋に分けたり、梁だけ鉄筋を入れて柱には使わないといった妙な構造を採用するとは考えにくいのです。結局、鉄筋量が少ないRC造ではないかと筆者は推測します。

ワイヤーケーブルで代用

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また、連卸台座の近くにも興味深いものがあって、何かの構造物の痕跡なのですが、鉄筋の代わりにワイヤーケーブルが使われています(右の写真) リ2 。ワイヤーは巻上機やエンドレス線(後述)に使うため炭鉱には豊富にある素材。これを鉄筋の代わりに用いる工法は長崎県の 端島炭鉱(軍艦島)の建築物などで確認されています。ちなみに、三菱鉱業は飯塚炭鉱の経営に乗り出す前から端島炭鉱を経営していましたが、他の炭鉱でもワイヤーを代用品にした事例はあるので、これをもって飯塚と端島に直接的な関係があるとはいえません。
 
なお、2基のうち本卸台座のみ飯塚市の指定文化財として保存されています。近くで見ることはできますが、柵に囲まれているので内部に入ることはできません。連卸台座は市の文化財に指定されておらず、民家の敷地に取り込まれた状態で残っています。見学の際は私有地に入らないようお願いします。
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【217】篠栗町の炭鉱(名称不明)
福岡県糟屋郡篠栗町
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【218】峰地炭鉱第三坑
福岡県田川郡添田町
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【219】飯塚市弁分の炭鉱(名称不明)
福岡県飯塚市

他の巻上機台座

参考までに、他の炭鉱の巻上機台座を3ヶ所ほど紹介しておきましょう。篠栗町の炭鉱(写真217)と峰地炭鉱第三坑(写真218)は明治〜大正時代の建設と思われるレンガ造で、飯塚市弁分の炭鉱(写真219)は昭和時代(戦後か?)と思われるコンクリート造の台座です。このような中小サイズの台座をはじめとする炭鉱遺構は、福岡県内の旧産炭地の至る所にひっそりと残っています。筆者の個人サイトでこれらを紹介しているので、興味のある方はご覧ください。上記の “リンク” は個人サイトの当該記事への直接リンクです。

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