補註
- 麻生家は江戸時代の大庄屋で地元の名家であったが、明治時代に麻生太吉が始めた炭鉱経営が成功して一大企業グループとなった。現在はセメントをはじめ医療、福祉、学校など多方面に事業を展開している。麻生太郎・元首相は麻生家の御曹司で太吉の曾孫。飯塚市内には明治・大正期に建てられた麻生家の邸宅が今もあり、このうち麻生大浦荘は年に1〜2回ほど一般公開される。
- それなりに裕福だった麻生家に対し、飯塚出身の伊藤伝右衛門は裸一貫から炭鉱王に上りつめた。華族令嬢 柳原白蓮(本名 燁子)との結婚と離婚を巡る騒動で世間の注目を浴びる。明治時代に建てられた伊藤伝右衛門の邸宅は現在は飯塚市が所有し一般公開されている。
- 中島徳松は1875(明治8)年、佐賀県杵島郡大町(おおまち)町出身。年少時から炭鉱に入り、17歳の頃には坑夫20~30人を擁する小炭鉱を経営していたという、伊藤伝右衛門と同じ叩き上げの人物である。1899(明治32)年、炭鉱で一旗揚げようと筑豊に赴き、任侠的な関係性が根強いこの地方で頭角を現す。中島鉱業は飯塚炭鉱をはじめ、福岡・佐賀・長崎各県で複数の炭鉱を経営した。
- 鈴木商店は神戸市を拠点に活動した総合商社で、大正時代は三井・三菱を上回るの売り上げがあったが、1927(昭和2)年に破綻した。
- 忠隈(ただくま)炭鉱は麻生太吉が1885(明治18)年に開坑した。麻生グループ創業期の基盤となった炭鉱だが1894(明治27)年に住友に売却。以後、1965(昭和40)年の閉山まで住友が経営した。筆者の個人サイトで詳しく紹介している。
- 日吉炭鉱(福岡県嘉麻市稲築才田)と池野炭鉱(長崎県佐世保市大野町)。詳細は各自で検索していただきたい。
- ハンチ(haunch)梁やスラブの端部の断面を中央より大きくした部分。曲げモーメントやせん断力の抵抗を大きくするために行う。(『建築現場実用語辞典』井上書院)
参考文献
- 『穂波町史』穂波町
- 『穂波町ものがたり《炭鉱編》』穂波町教育委員会
- 『三菱飯塚炭坑史』麓三郎、三菱鉱業
- 『三菱鉱業社史』三菱鉱業セメント総務部社史編纂室、三菱鉱業セメント
- 『日本の石炭産業遺産』徳永博文、弦書房
- 『筑豊の近代化遺産』筑豊近代遺産研究会、弦書房
- 『福岡県の近代化遺産』福岡県教育委員会
- 現地説明板
リンク
- あれなん > 三菱鉱業 飯塚炭鉱、79年間で
- トライスターの放浪日記 > 三菱鉱業飯塚鉱業所(三菱飯塚炭鉱)
- 九州ヘリテージ > 雑記帳 > 三菱飯塚炭鉱、福岡県飯塚市南部の炭鉱関連遺構
- くうねるあそぶ♪~NO RUINS,NO LIFE. ~ > 【遺構】三菱飯塚炭鉱-巻き上げ機台座、【遺構】麻生炭鉱中野倶楽部、【遺構】三菱飯塚炭鉱-ホッパーなど、三菱鉱業 飯塚炭鉱 運炭線
- 日本の鉱山 > 福岡県の炭鉱探訪マップ > 三菱飯塚炭鉱 その1
- 三菱広報委員会 > マンスリーみつびし > 三菱史紀行 > 2007.6 vol.15 福岡県・筑豊/若松
- 鈴木商店記念館 > 神ノ浦炭坑(福岡県)
- 九州大学付属図書館 炭鉱画像データベース > “飯塚” で検索 > No.3 飯塚炭坑第二坑、No.5 飯塚第二坑全景 │ “中島鉱業” で検索 > No.6 中島炭坑全景
- 九州工業大学情報工学部 筑豊歴史写真ギャラリー > “飯塚炭鉱” で検索 > No.137 忠隈炭砿ボタ山より飯塚炭鉱ボタ山を見る、No.457 弔魂碑、No.458 三菱飯塚炭砿山神社跡碑文
- amanaimages アナマイメージズ > ボタ山と飯塚工業団地
- 歩鉄の達人 > 廃線探索写真集 > 九州地区 上山田線
- 我が大地の歌 > 鉄ちゃんのコーナー > 懐かしの上山田線
- NHK 戦争証言アーカイブス > ヤマの戦争 強いられた増産 ~福岡県・筑豊炭田~、ジョン・バクスターさん「筑豊炭鉱での捕虜生活」(炭鉱の話はチャプター9から)、石炭増産へ! 闘う採炭戦士、石炭増産の坑夫ら表彰<大東亜建設譜>、増産に励む炭鉱<吾ら斯く戦う逞し銃後>
- ALL-A > 飯塚炭鉱 筆者の個人サイトでも紹介している。説明文は建築マップの方が詳しいが、写真は別のものも掲載しているので、併せてご覧いただきたい。