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スライドショー 10枚

平和ビル第1棟

概要

九州の北端に位置する福岡県北九州市は、門司・小倉・戸畑・八幡・若松の5市が1963(昭和38)年に合併して生まれた都市である。そのひとつの八幡市(現・八幡東区と八幡西区)は、明治時代に官営製鉄所(現・新日鐵住金 八幡製鉄所)が進出して以来、多くの工場が集まり市街地が発展した。そのため、太平洋戦争中は何度か空襲されて大きな被害を受けてしまう。戦後、八幡市は戦災復興計画を策定して中心部の区画整理を行い、これが都市の骨格となって現在に至っている。

この区画整理事業の中心的存在が八幡駅前の開発で、国鉄(当時)八幡駅を現在の位置に移転、駅前から南に幅50mの道路(国際通り)を設けて南端にロータリーを設置、沿道やロータリー周辺に公共性の高い施設が建てられた。広い道路幅を確保したのは、大規模火災が発生しても道路で延焼を止めるためであり、これを防火帯道路という。もっとも、延焼防止だけなら50mは広すぎで、この大通りには大都市に相応しい景観を作ろうという狙いがある。

さて、本稿で紹介する平和ビルは、八幡駅前から県道50号線との交差点にかけての国際通り沿いに建設された集合住宅である。第1〜4棟まであったが、うかつにも筆者は第1棟を数枚しか撮っていない。平和ビルは再開発に伴い2003(平成15)年にすべて解体された。4棟とも鉄筋コンクリート造4階建てで、1階は店舗、2階は店主の住宅、3~4階は賃貸住宅という構成の店舗併存住宅、いわゆるゲタバキアパートである。

左から平和ビル第1棟、西本町団地本町団地

上空から4棟を見ると、道路に対して帯状に壁のように建っていることが分かるだろう。1952(昭和27)年、都市の不燃化を進めるために耐火建築促進法が施行され、幹線道路沿いに設定された防火建築帯というエリアの中に不燃建築物を建てる場合、補助金が出ることになった。この制度を利用して横浜市など各地の沿道に防火帯建築が出現した。平和ビルやその東に同時期に完成した西本町(にしほんまち)団地もこのタイプの建築だ。特に、平和ビルの第3〜4棟と西本町団地の第1〜3棟の配置からは、ヨーロッパの都市のように街区を建築で取り囲もうとした意図がうかがえる。この点については西本町団地の記事で詳しく述べている。

平和ビルは八幡市住宅協会の集合住宅で、竣工年は1954(昭和29)年とされている。ただ、『福岡県住宅復興誌 I 』には昭和27年竣工の新駅前団地と記されており、正式名称と竣工年はいまいちはっきりしない。昭和27年は着工年で何らかの理由で施工期間が長引いた、あるいは昭和27~29年にかけて4棟を順次建設した可能性も考えられよう。なお、八幡市住宅協会は住宅建設を目的として1950(昭和25)年に設立された同市の外郭団体で、北九州市住宅供給公社の前身である。

設計者については、第1棟が村野藤吾氏、第2~4棟が松田軍平氏と平田重雄氏(松田平田設計の創設者)といわれてきた。しかし、『建築MAP北九州』94~95頁にはそのように書かれている一方、村野関連の書籍では筆者の知る限り『村野藤吾建築案内』巻末の作品リストに記載された以外、平和ビルのことはほとんど言及されていない。実際に第1棟を見ると、部分的に村野氏の特徴は見出せるものの(後述)、全体としては彼のデザインとは正直いって考えにくい。

photo01

国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)撮影 1974・昭和49年度
着色した部分が住棟(紫:現存、水色:現存せず)、数字は住棟番号

この設計者に関する疑問について、『北九州地域における戦前の建築と戦後復興の建築活動に関する研究』では、関係者への聞き取り調査などから実際は八幡市建築部の設計だと明らかにしている。同部署が作成した図面を村野氏がチェックして次のように見直されたとのことである。(1) 住居平面は変更なし (2) 道路側にあった階段を裏側に移動 (3) 壁面を表側に出す (4) 壁面の意匠を変更。よって、村野氏の役割は監修者といったところだろうか。八幡市が平和ビルの設計を進めていた時点で、八幡市民会館の設計を村野氏に依頼することが既に内定していたか、少なくとも一部関係者がそういう意向だったらしく、その関係で平和ビルにも助言を求めたようだ。一方、第2〜4棟と松田・平田両氏との関係は不明のままである。

ちなみに、スライドショーの1枚目に示した国際通り沿いの建築のうち、八幡市民会館、八幡図書館、八幡信用金庫本店(現・福岡ひびき信用金庫本店)の3件が村野藤吾氏の設計だ。彼の建築がこれほど集中して現存する例は他にない。村野氏は佐賀県唐津市の出身だが、青少年時代は八幡市で過ごし、八幡製鉄所に勤めた経験がある。彼の建築が多いのはその縁と、隣県にある彼の代表作、渡辺翁記念会館(山口県宇部市)を八幡市関係者が高く評価したことによる。余談だが、八幡市民会館の西隣にあった八幡製鉄所労働会館(現存せず)は池辺陽氏が設計した。

平和ビルの建築的特徴を簡単に述べると、第1棟の立面は第2〜4棟とは若干異なっていて、格子状のフレームやガラスブロックの使用といった独自性が見られる。第1棟が窓とガラスブロックの腰壁を組み合わせてほぼ正方形の開口部であるのに対し、第2〜4棟は水平連続窓だ。第1棟の独自性が村野氏の助言をどの程度反映したものかは確認できていないが、少なくともガラスブロックはその可能性は高いのではなかろうか。ガラスブロックは、日本の建築家の中でも彼がいち早く採用して積極的に使った素材である。

住戸プラン(間取り)は『戦災復興期における八幡市住宅協会の試みとその計画史的評価』で紹介されている。同論文によると、第1〜4棟まで基本的な住戸は共通していて洋室1、和室6畳(広縁付き)、和室3畳、台所、便所、浴室というプランだ(不動産表記でいうと3K)。昭和20年代で内風呂付きの集合住宅はかなり先進的だ。交差点に面する壁が斜めの住戸は、三角形の洋室とすることで解決していた。

前述の通り平和ビルは4棟とも解体され、高層マンションに建て替えられた。その低層部の商業施設の立面は、確認したわけではないが平和ビルのデザインをある程度継承したような印象を受ける。

データ

住所:福岡県北九州市八幡東区西本町4-1
設計:八幡市建築部+村野藤吾
竣工:1954(昭和29)年頃
撮影:2002(平成14)年9月
備考:現存せず

リンク

  1. 北九州のあれこれ八幡のまちかど八幡駅前

参考文献

  1. 『建築MAP北九州』TOTO出版
  2. 『村野藤吾建築案内』村野藤吾研究会編、TOTO出版
  3. 『福岡県住宅復興誌 I 』福岡県住宅復興促進協議会
  4. 『北九州地域における戦前の建築と戦後復興の建築活動に関する研究』尾道健二・内田千影・開田一博、北九州産業技術保存継承センター・九州共立大学
  5. 『戦災復興期における八幡市住宅協会の試みとその計画史的評価』西村博之、九州大学大学院人間環境学府 都市共生デザイン専攻 2002年(論文の公開ページ
  6. 『八幡の建設』八幡市役所秘書課、1957(昭和32)年発行

作成日:2014/1/10、最終更新日:2014/1/21 西本町団地の記述を微修正、スライドショーの写真を一部差し替え

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