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三池炭鉱三川坑 ( 2/5 )
Mikawa Pit of Miike Coal Mine
福岡県大牟田市、1940(昭和15)年
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【201】炭鉱夫の像(大牟田市延命公園)

三池争議とは

三池争議と三川坑炭塵爆発事故の2件は、三池炭鉱の労働者や市民に後年まで深い傷跡を残すことになります。まず三池争議から説明すると、これは三池炭鉱を経営する三井鉱山と労働者との間で1959~1960(昭和34~35)年にかけて展開された日本最大の労働争議です。三池争議の直接的な争点は指名解雇の撤回ですが、大局的に見れば資本家/資本主義と労働者/社会主義の天下分け目の闘いであり、後の労働運動に大きな影響を与えました。

本稿に登場する組織の名称・略称・概要

三池炭鉱労働組合(三池労組):炭鉱夫など現場労働者の組合。第1組合とも
三池炭鉱新労働組合(新労):三池労組から分裂した。いわゆる第2組合
三池炭鉱職員労働組合(職組):事務系や労働者に指示を出す職員の組合
全国三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連):全国の三井系炭鉱労組の連合組織
日本炭鉱労働組合(炭労):全国の炭鉱の労組の連合組織
日本労働組合総評議会(総評):全産業の労組の連合組織
中央労働委員会(中労委):労使間の調整を行う厚労省(旧 労働省)の外局

「英雄なき113日間の闘い」─三池争議前史

戦後、GHQの民主化政策により労働組合の結成が相次ぐ中、三池労組は1946(昭和21)年に誕生。当初は労使協調路線だった三池労組は、マルクス経済学者 向坂逸郎・九州大学教授 註1 の指導で社会主義思想が浸透するなどにより、次第に会社との対決姿勢を強めていきます。1953(昭和28)年、三井鉱山は経営合理化のため希望退職者を募集したものの、予定の人員に達しなかったため指名解雇を通告しました。三池労組をはじめとする三鉱連はこれを拒否してストライキを実施し、最終的に会社側は指名解雇を撤回。この争議は「英雄なき113日間の闘い」と呼ばれ、三池争議の前史に位置付けられます。職組の組合員も解雇対象になっていたため、このときは三池労組と職組は共闘しました。
 
その後、この勝利によって自信を深めた三池労組は現場単位で積極的な闘争を展開(職場闘争という)。かつて共闘した職組の組合員を吊し上げるなどして影響力が増大し、労務管理や人事の主導権が会社側から三池労組に移行していきます。こうして事実上、三池炭鉱は労働者が自主管理する職場になったのです。

三池争議勃発の経緯

昭和30年代に入ると石炭から石油への転換が本格化し、炭鉱経営の合理化を迫られた三井鉱山は三池労組の対決を決意します。1959(昭和34)年、三鉱連への合理化案提示から交渉決裂、中労委斡旋の拒否を経て、三池労組の組合員に対して退職勧告、それを拒否した1278人に解雇通知と、次々に手を打ちました。職場闘争に積極的な組合員を断固排除する姿勢の三井鉱山に対し、三池労組は「英雄なき113日間の闘い」で指名解雇撤回を引き出した経験から今回も勝てると信じており、後で振り返れば労組は会社側の意志の強さを読み損なったといえます。

争議の激化

翌1960(昭和35)年の正月、三池労組はヘリコプターからばらまく方法で解雇状を会社に返上。1月末、三井鉱山は三池炭鉱で当時操業中の三川・四山・宮浦坑のロックアウト(閉鎖)註2 を実施、これに三池労組は無期限ストライキで対抗します。ただし、吊し上げで三池労組との関係が悪化した職組はストに参加しませんでした。
 
スト期間中は収入が途絶える三池労組の労働者や家庭に対し、労組の全国組織である総評はカンパを募って支援しました。一方、三池炭鉱の操業停止で経済的に苦しい三井鉱山に対しても組合の増長を憂える経済界が支援。三池争議は一企業の枠を超え、「総資本対総労働」と呼ばれる史上最大の労働争議に発展していきます。

三池炭鉱の年表1( 三池争議を中心に)

 1873・明6
「日本坑法」公布、三池炭鉱の官営化
 1888・明21 三池炭鉱を三井に払い下げ
 1937・昭12 三川坑着工
 1940・昭15 三川坑出炭開始
 1946・昭21 三池労組と職組が結成される
 1949・昭24 昭和天皇、三川坑を視察
 1953・昭28 「英雄なき113日間の闘い」
 1959・昭34 8/28 三井鉱山、三鉱連に第2次合理化案を提示
  11/12 三井鉱山と三鉱連の交渉決裂
  11/21 中労委、第1次斡旋案を提示
  11/25 労使とも斡旋案を拒否
  12/2 三井鉱山、三池労組1492人に退職勧告

12/10 三井鉱山、退職勧告に応じなかった1278人に指名解雇を通告。1202人が拒否
 1960・昭35 1/5 三池労組、解雇状をヘリでばらまいて会社に返上

1/25 三井鉱山、ロックアウトを実施。三池労組、無期限ストに突入
  3/15 三池労組内部の批判派が分裂
  3/17 批判派が新労を結成
  3/28 就労を巡り、三池労組と新労が三川坑で衝突
  3/29 三池労組の久保清氏が暴力団員に刺殺される
  4/18 新労、三川坑に強行入構。三池労組、三鉱連脱退
  4/23 三井鉱山と三鉱連、会社再建案に調印
  6/6 三井鉱山、三川坑ホッパー立入禁止の仮処分を申請(第2次)
  7/7 三池労組と新労、船による資材搬入を巡り海上衝突。福岡地裁、ホッパー立入禁止仮処分を決定。執行期限は7/21
  7/17 総評、ホッパー前で10万人の大集会を開催
  7/19 池田内閣発足。石田労働大臣、労使に事態収拾を勧告、中労委に職権斡旋を要請
  7/20 中労委、労使に白紙委任の「申し入れ」。炭労、受諾。三池労組と警官隊の衝突回避
  7/25 三井鉱山、「申し入れ」を受諾
  8/10 中労委、斡旋案を提示。事実上、指名解雇を容認
  9/6 炭労、斡旋案を受諾
  9/7 総評、炭労の決定を了承
  9/9 三池労組、斡旋案を受諾
  11/1 労使双方が無期限ストとロックアウトを解除。三池争議終結

組合の分裂と刺殺事件

「鉄の団結」を誇った三池労組でしたが、強硬路線やスト中の生活苦から執行部に批判的な人々が増加、3月に批判派は分裂して新労を結成します 註3 。新労は労使協調路線を掲げ、ロックアウト中の会社側は新労の組合員による操業再開を決定。3月28日、三川坑に入る新労とこれを阻止しようとする三池労組が衝突し、多数の負傷者が出ます。危険な現場で共に働き、堅く団結していた労働者同士が乱闘を繰り広げる事態に陥ったのです。翌日には四山坑前でピケ 註4 を張っていた三池労組と暴力団が衝突して労組の久保清氏が刺殺 註5 され、事態収拾はいよいよ難しくなります。また、組合の分裂は労働者の家族にも影響し、三池労組と新労それぞれの組合員の妻同士がいがみ合うようになり、仲良く暮らしていた炭鉱住宅街の人間関係は壊れてしまいました。

ホッパー決戦

混乱はあったものの、新労と職組で操業を再開した動きに対し、三池労組は三川坑のホッパーを占拠して抵抗します。ホッパーとは石炭を貯蔵する施設(貯炭槽)のことで、三川坑と四山坑の石炭はこのホッパーに一旦貯蔵する仕組みになっていました。つまり、ホッパーを経由しなければ石炭を出荷できないわけです。会社側はホッパー以外の場所に貯炭して別ルートで搬出する方法を採りますが、急場しのぎに過ぎず、安定操業のためには何とかホッパーを奪還しなければなりません。ホッパー占拠以外に対抗手段がなくなった三池労組もこれを死守する構えで、争議の行方はホッパー攻防戦に集約されてきました。
 
7月初旬、三井鉱山が申請した三池労組に対するホッパー立入禁止・妨害排除の仮処分を福岡地裁が認めます。もちろん労組は拒否して占拠を続行。総評は17日にホッパー前で10万人規模の大集会を開催するなど、三池労組と上部組織は徹底抗戦の姿勢を崩さず、ついに警察による実力排除が現実に迫ってきました。20日未明、三池労組と全国の支援者計2万人と警官隊1万人がホッパー前で対峙。この人数が衝突すれば流血の事態は避けられません。

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三川坑の前で衝突する三池労組と新労の組合員
 
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三川坑ホッパー
2枚とも『三池争議写真集』(三池炭鉱新労働組合、 1960(昭和35)年発行)から引用。

中労委の斡旋案

19日に発足した池田内閣は、20日午前5時に迫った警察の実力行使を前に、流血回避に向けて動きます。そしてリミットの2時間前、中労委は労使双方に異例の「申し入れ」を提示。その内容は「一週間後に斡旋案を出すので労使はこれに従うこと、労組はピケを解除、会社は仮処分申請を取り下げること」、つまり中労委への白紙委任と一時休戦の要求です。総評・炭労のトップが受諾の意志を示したため、警官隊は引き揚げて衝突はギリギリで回避されました。三井鉱山も数日遅れで「申し入れ」を受諾します。
 
三池労組側は指名解雇撤回の斡旋案が出るはずだと信じていましたが、8月10日に出された斡旋案は期待を裏切るものでした。要約すると「本日より1ヶ月の整理期間をおく。これを経過した者については、会社は指名解雇を取り消し、自発的に退職したものとする」。自主退職の体裁を取りつつ実質的には指名解雇を認める内容です。総評・炭労は受諾を決定。上部組織の支援なしにこれ以上の争議継続は難しく、三池労組も受諾を余儀なくされます。こうして三池労組の全面敗北という形で三池争議は終結しました。

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