三川坑炭塵爆発事故
三池労組の闘争に行き過ぎた部分があったにせよ、運動の基本は坑内保安、つまり安全性の確保にありました。しかし、争議終結後は出炭量の増加が優先される中で坑内事故が頻発し 註7、ついに最悪の事態を招きます。1963(昭和38)年11月9日午後3時12分、三川坑第一斜坑内で大爆発が起き、街中に轟音が響きました。さらに、爆発で発生した一酸化炭素(CO)ガスが坑内に充満。事故当時はシフトの交代時間にあたり、坑内には約1400人の労働者がいましたが、有毒なCOガスを吸って次々と倒れます。この三川坑炭塵(たんじん)爆発事故は、死者458人、CO中毒患者839人という戦後最悪の労働災害になりました。
捜査過程での不可解な出来事
事故後に現場に入った政府調査団は、事故のプロセスをおおむね次のように突き止めました。まず斜坑内の炭車(たんしゃ、石炭を運ぶトロッコ)が脱線し、連結リンクが破断して逸走、これが何らかの着火源を引き起こし、坑内に堆積していた炭塵 註8 に着火して爆発した─ しかし、調査団長の山田穣・九州大学名誉教授は、着火原因が不特定のまま調査団の解散を宣言したため、前述の内容と爆発防止策をまとめた中間報告書を提出して調査は事実上終了。これを受けて三池炭鉱は操業を再開します。
調査団の一員で山田氏の教え子でもある荒木忍・九州工業大学教授ら数人は、警察の鑑定人として究明作業を続け、逸走したトロッコが電気ケーブルを破損した際に発生したスパークが着火原因であることを突き止めました。炭塵堆積の防止は保安の基本にもかかわらず、坑内清掃を怠り炭塵を放置した会社側の責任は重大です。荒木鑑定書を受け取った福岡地検は、業務上過失致死傷と鉱山保安法違反による三井鉱山関係者の起訴を目指します。
ところが、鑑定書の完成後、山田穣氏は別の説を唱える上申書を提出しました。それは、堆積していたのは炭塵ではなく爆発性のない砂塵だという三井鉱山に有利な内容でした。彼が団長を務めた政府調査団は炭塵堆積を認めているのにです。さらに、三井鉱山の弁護団は、爆発したのは揚炭ベルト上の石炭に混じる微粉炭だとする上申書を提出。ベルトで搬送中の石炭が爆発したのだから不可抗力だと主張しているわけです。
上申書の提出後、起訴に積極的だった福岡地検の担当検事全員が人事異動で転勤。新任者は膨大な捜査資料を読むところから始めなければならず、捜査はやり直しも同然となります。そして1966(昭和41)年、福岡地検は三井鉱山関係者の不起訴を決定し、誰も刑事責任を問われないまま捜査は終了しました。
CO患者と家族の苦しみ
三川坑事故では839人がCO中毒に罹りました。重症患者は寝たきりになり、今もそのままの方がいます。また、軽症(とされた)患者も頭痛、けいれん、記憶力の低下、人格の変化等といった後遺症に苦しみますが、当時の医学ではCO中毒は予後良好説(いずれ回復する)が定説だったため、CO患者の治療は十分ではありませんでした。神経障害は表面的には健康にみえるので周囲の理解を得るのが難しく、その上、労組が医療現場に口出しした反感から一部の医師達が「組合原性疾患」(組合が患者に病状を大げさにいわせている)との表現でニセ患者だと示唆したため、患者と家族は社会的に孤立していきます。
1963・昭38 | 三川坑炭塵爆発事故。死者458人、CO患者839人 |
1965・昭40 | 事故原因について、荒木鑑定書、山田上申書、三井鉱山の上申書が出る |
1966・昭41 | 福岡地検、三井鉱山関係者の不起訴を決定。CO患者のうち738人の労災補償打ち切り(治癒認定)。新労と職組は受諾、三池労組は拒否 |
1967・昭42 | CO法成立。三池労組の主張通らず、不十分な内容 |
1968・昭43 | CO協定調印 |
1972・昭47 | 一部のCO患者と家族、三池労組の方針に反して三井鉱山に対し損害賠償請求の民事訴訟(三池CO家族訴訟) |
1973・昭48 | 三池労組のCO患者と遺族、三井鉱山に対して民事訴訟(三池COマンモス訴訟)。三井鉱山から石炭部門が分離、三井石炭鉱業設立 |
1985・昭60 | 福岡地裁、マンモス訴訟の原告・被告双方に和解を打診。原告団の大半は受諾。一部は分裂して裁判継続 |
1987・昭62 | マンモス訴訟、和解成立。事故責任の司法判断なし |
1993・平5 | 家族訴訟とマンモス訴訟(和解拒否派)の福岡地裁判決。患者本人への賠償と三井鉱山の事故責任を認める。妻への慰謝料は棄却。家族訴訟原告は控訴。マンモス訴訟和解拒否派は控訴せず一審判決確定 |
1996・平8 | 福岡高裁、家族訴訟の控訴棄却(一審判決支持)。原告、最高裁に上告。CO協定廃止 |
1997・平9 | 三池炭鉱閉山。新労と職組が解散 |
1998・平10 | 最高裁、家族訴訟の上告棄却(一審判決確定) |
2005・平17 | 三池労組解散 |
2006・平18 | 三井石炭鉱業、会社を精算 |
2009・平21 | 三井鉱山、社名を日本コークス工業に変更 |
2012・平24 | 三川坑、初の一般公開 |
2013・平25 | 大牟田市、三川坑を保存する意向を表明。政府、三池炭鉱の一部施設(三川坑は含まず)の世界遺産推薦を決定 |
11/9 三川坑事故から50年。行政・会社・各組合・遺族が一堂に会した慰霊祭を初めて開催 |
【302】殉職者慰霊碑の碑文
地底にねむる友よ
君がのぞんでいたもの
かぞくのみんなが夢みたもの
それが花ひらく日を
われら ここに 築こう
ふたつの民事訴訟
労災補償の打ち切りを受けて1967(昭和42)年にCO法が成立するも、患者と家族の困窮を改善するには不十分な内容でした。1972(昭和47)年、一部の患者・家族は三井鉱山を相手に損害賠償と事故責任を問う民事訴訟(三池CO家族訴訟)を起こしますが、会社との直接交渉を重視する三池労組は原告団の行動を「物とり主義」と批判し、冷遇します 註9。しかし翌年、その三池労組も患者と遺族で大原告団を組織して同様の裁判(三池COマンモス訴訟)を起こすのです。家族訴訟は患者とその“家族”が原告、一方マンモス訴訟は患者と“死者の遺族”が原告で、“患者の家族”は参加していません。闘争方針の違いからふたつの原告団は別々に動きます。
1985(昭和60)年、福岡地裁はマンモス訴訟の原告・被告双方に和解を打診。裁判の長期化で疲弊した原告団はこれを受け入れますが、一部の原告は拒否して分裂します。1987(昭和62)年、和解が成立するも事故責任の司法判断は無し。そして事故から30年経った1993(平成5)年、福岡地裁は家族訴訟とマンモス訴訟和解拒否派の両裁判について、炭塵爆発説を認定して三井鉱山の賠償責任を認め、患者と(マンモス訴訟の)遺族に賠償を命じる判決を下します。三井鉱山の事故責任を認める司法判断が出た点は大きな勝利ですが、患者家族への賠償は棄却されたため、家族訴訟の原告は控訴。マンモス訴訟は原告・被告とも控訴せず一審判決が確定します。
1996(平成8)年、福岡高裁は控訴を棄却。1998(平成10)年、最高裁も上告を棄却。事故から34年余り、提訴から25年を経て、一審判決確定という結果で長い裁判は終わりました。
三池炭鉱の歴史の象徴
最高裁判決の前年の1997(平成9)年に三池炭鉱は閉山し、明治初期の官営化以来120年余り続いた歴史に幕が下りました。閉山とともに新労と職組は解散し、数年遅れて三池労組も解散。2009(平成21)年、三井鉱山は社名を日本コークス工業に変更。炭鉱が過去のものとなる中、CO患者の多くは既に亡くなり、残る方々は後遺症に苦しむ生活が続いています。また、坑内で吸った炭塵が原因で塵肺(じんぱい)を患った方も少なくありません。労働争議、組合の分裂、爆発事故、患者の差別と対立、長い闘病生活と法廷闘争─ 繁栄と苦難に満ちた三池炭鉱の歴史、その象徴が三川坑なのです。