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八幡製鐵所専用鉄道

概要

新日鐵住金は2012(平成24)年に新日本製鐵と住友金属が合併してできた製鉄会社だ。両社とも福岡県北九州市に工場を持っていて、旧・新日鐵側はさらに八幡地区と戸畑地区に分かれる。このうち八幡地区は1901(明治34)年に操業を開始した官営八幡製鐵所(正確には官営製鐵所)が原型で、近代製鉄業のルーツというべき工場だ。戸畑地区の方は1917(大正6)年に操業を開始した東洋製鐵戸畑工場が起源だが、第1次世界大戦後の不況のため、1921(大正10)年から八幡製鐵所に経営が委託された。1934(昭和9)年、官営八幡製鐵所を中心に複数の製鉄会社が国策により合同して日本製鐵(日鐵)が誕生。このとき東洋製鐵戸畑工場も日鉄に移り、正式に日鐵八幡製鐵所の一部となった。
 
1950(昭和25)年、GHQの指示で日鐵は解体され、八幡・戸畑両工場は八幡製鐵として存続。1970(昭和45)年、富士製鐵と合併して新日本製鐵に、そして冒頭で述べた通り2012(平成24)年に住友金属と合併、新日鐵住金となって現在に至る。
 
さて、製鉄所は原材料や製品、高炉の燃料である石炭などを輸送するため、構内(工場の敷地内)に軌道が敷設されている。一般人は普段立ち入りできないので全容の把握は難しいが、地図・航空写真や工場見学で垣間見るだけでも相当な路線網が形成されていることが分かる。当サイトでは、新日鐵住金の八幡・戸畑地区に含まれる軌道を八幡製鐵所専用鉄道と呼称する。


地図の左下〜中央〜上に延びる太線がくろがね線。青マーカーは当サイトで取り上げている構造物の位置を示す。
 

戸畑地区のアップ

この専用鉄道には、構内軌道の他に市街地を通って八幡・戸畑両地区を結ぶ路線がある。同線は両地区間の貨物輸送を目的として1927(昭和2)年に着工し、1930(昭和5)年に開通した。開通当初は炭滓(たんさい)線や鉱滓(こうさい)線との通称で呼ばれていたが、1972(昭和47)年に所内報で新たな名称が募集された結果、くろがね線と名付けられた。ただ、年配者は今も古い通称を使う人が少なくないようだ。
 
見学・撮影が極めて難しい構内軌道に比べると、市街地を通るくろがね線は容易に接近できるので、レアな車両狙いの鉄道マニアにディープな人気がある。筆者が撮ったくろがね線の車両は別カテゴリの記事をご覧いただきたい。このサブカテゴリの名称である「八幡製鐵所専用鉄道」は構内軌道も対象に含むが、実質的にはくろがね線を構成する土木構造物を中心に紹介している。なお、くろがね線も構内軌道の一部という見方もあるだろうが、筆者は区別する立場を取る。
 
概要を述べておくと、くろがね線は八幡製鐵所の八幡地区(北九州市八幡東区)と戸畑地区(同市戸畑区)を結ぶ全長約6kmの専用鉄道である。軌間は旧国鉄/JR在来線と同じ1067mm。開通当初から電化済みで複線だったが、輸送量の減少に伴い後年に単線化された。当初の貨物は主に溶融した銑鉄(せんてつ)や副産物の鉱滓で、炭滓線/鉱滓線の通称はこの鉱滓輸送が由来だろう。その後、これらの輸送はなくなり、現在は半製品のスラブやホットコイルなどを積んだ貨物列車が1時間に1本程度ゆっくりと走行している。
 
路線のうち八幡東区の部分は高架橋やトンネルが多く、戸畑区側が人家により近い。JR線や道路との交差部はすべて立体交差で踏切はない。これらの橋梁やトンネルはおおむね昭和初期の建設時の状態を維持しており、産業遺産として価値がある。炭滓線/くろがね線は沼田尚徳(ひさのり)を中心とする八幡製鐵所土木部が設計した。沼田は京都大学を第1期で卒業した土木技師で、同線をはじめ河内貯水池のダム橋梁など、八幡製鐵所関連の土木施設を数多く手掛けている。

データ

住所:福岡県北九州市八幡東区・戸畑区
設計:沼田尚徳 / 八幡製鐵所土木部
竣工:1930(昭和5)年

参考文献

  1. 『北九州の近代化遺産』北九州地域史研究会、弦書房
  2. 『福岡県の近代化遺産』福岡県文化財調査報告書第113集、福岡県教育委員会

リンク

  1. Aux Amis des Trainsくろがね線を読み解く(目次)
  2. 新日鐵住金八幡製鐵所くろがね線 ウィキペディア

 
作成日:2013/10/13、最終更新日:同左

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